包丁の歴史と和食
原始の庖丁(石器)
庖丁は文明以前から存在していたでしょう。
おそらくは旧石器時代の始まりである260万年前よりはるか以前、現時点で最古の人類とされる『サヘラントロプス・チャデンシス』の700万年前から存在したかも知れません。もちろんそれは金属ではなくただの石ですが。
そして庖丁があれば、それを切れる様にする物も同時にあったはずで、それはすなわち『砥石』であり、原初の段階で包丁と砥石は対だったとも思います。
よく原始人が先に石を括りつけた棒を持ってる画像を見ますが、ハンマーや斧よりもやはり「小物を切る」道具が先である気がします。
その根拠は、サルからヒトへ進む過程で一番重要な変化が「食糧採取・摂取」であり、何をおいても「切る道具」が不可欠だと思うからです。
「火の使用」よりも先であったと考えてもいいと思うのです。つまり「食べる物を切り取り、口に入れやすいサイズにカットする」という事で、後者の意味において、これは「庖丁」に他なりません。
もちろん道具として洗練されたのはずっと後のネアンデルタール・クロマニヨン人の時代、つまり5万年前くらいからでしょうけども。
刃物がさらに用途別に細分化し、針・火打ち石・ナイフ・斧・スキマーなどを実用的レベルにしたのはクロマニヨン人だと考えられています。石器ばかりではなく、骨も材料に使っています。
金属の庖丁(青銅・鉄)
『荘子』の「養生主篇」に庖丁(ホウテイ)と呼ばれる料理人が登場する。「庖」は調理場、「丁」は召使と言ったほどの意味で、「調理場で働く男」のことである。この逸話の中で庖丁は見事な刀捌きで魏の恵王に褒められ、後にその刀を庖丁と言ったのが始まり。これが日本語読みで「ほうちょう」となった。「庖」が当用漢字外とされたため、同音の「包」で代用することとなり、現在に至る。
Wikipedia-包丁-から
これをもう少し細かく言いますと、庖丁(ホウテイ)〈あるいは丁〉という人物は、牛の解体の名人だったそうで、「庖丁、文恵君のために牛を解体す」と『荘子』にあります。
「庖」は厨房の厨と同じ意味であり、その庖(厨房)で働く丁が持っていた刀だから庖丁となった。そこから料理する人も庖丁人となった。
しかしなにぶん紀元前数世紀のお話です。つまり2000年以上も前の事。庖丁は人物名ではなく、肉をさばく刀の技術そのものを指していた、との説もあり、新たな文献でも出ない限り、確かなところは分かりようがないと思います。
ですが、ナイフ・刀/剣の類から調理用途への刃物へ分かれた起点はこのあたりなのは確かでしょうね。
日本での庖丁
先に述べた様に石器による庖丁は縄文から存在したはずですし、弥生期には金属のものを使っていたと思われます。
日本に庖丁の名が現れたのは奈良時代。庖は宮廷の厨房を意味し、丁は従事する者(ヨホロ)
そこで使われる刃物は庖丁ではなく、日本刀そのもの。
小刀です。呼び名は『刀子(トウス)』
生間流式包丁
「料理する事を庖丁」「料理する人を庖丁人」
はっきりとこう書かれているのは、後の鎌倉時代です。
日本料理の形式が出来始めたのは平安から鎌倉、室町時代です。
藤原 山蔭が四条流を、大草流や生間流などの流派もできて、主に庖丁式で包丁師が左に真魚箸、右に刀子(式庖丁)を持ち、魚や鳥を捌く儀式(庖丁式)などができました。
ちなみにこれらは全て宮廷内の話であり、主に貴族達の世界においての物語です。
当時の貴族の精神を支配していたものが、伝来した仏教である事は、古都に残る荘厳な当時の構築物を見れば一目瞭然。
したがって日本料理に決定的な影響を与えたのは「仏教」だと言えると思います。その1つに「肉食を度々禁じる」いうものがあり、これが精進料理を発達させます。もう1つは美味を言うのがタブーであった事。これも仏教の影響です。
なので、栄養面の配慮はほぼゼロに等しく、平安貴族達は生きてるのが不思議なくらいお粗末で不味い料理を食べていたのです。
ようやく料理が裾野を広げたのは鎌倉から江戸時代にかけてと言えましょう。要するに武家による力の時代で、武力の威圧のおかげで、宗教の威光をもって国民を統治する必要がなくなってからです。
室町に武家の法を確立した足利幕府の時代が分岐点です。この時にできた『本膳料理』こそが今の和食の基本です。 また茶の湯の『懐石』もできました。
ともあれ食文化の基礎はこの時代に形成され、『出刃庖丁』や『菜刀』などは、すでにこの時期には存在しており、それを庖丁と呼んでいた様です。
※出刃は1683頃すでに大阪・堺で作られていた。そして和食文化が一気に開花したのが江戸時代。
醤油や酢の大量生産が始ったのも影響していますし、「大衆文化」らしきものが隆盛したおかげで、食の大衆化が起きたからだと言えましょう。
それは「都市」というものが町人文化を生んだからでしょう。奈良や平安京は貴族と寺社の町であり。町民なるものは存在していなかったからです。
江戸の文化文政期には町人文化が爛熟し、料理茶屋が多数出現。料理技法も飛躍的に発達します。
この頃出刃庖丁を基に、刺身庖丁が創られ、薄刃やむきもの、鰻裂き庖丁など料理の用途に合わせたバラエティ豊かな庖丁が次々に生まれ、その種類およそ40。これは世界でも類を見ないものです。
そして武具の「刀」と曖昧であった刃物が、はっきりと『庖丁』になるのです。
大阪・堺の刀鍛冶「文殊四郎」が優れた庖丁を作り出し、名声を高めます。これにともない『庖丁鍛冶』も堺を筆頭に、岐阜の関、新潟の三条、兵庫の三木などで専門職として広がりました。