和食献立と皆既日食

  

板前、食を観る

「板前が食」っても料理の話じゃございません。
料理の話だと思われた方は即座に退出の労をおん願います。サイト離脱をいたされません事を。アクセス御礼。あいすみません。



食は食でも「eclipse」のしょくです。2009年7月22日、北緯24度12分36秒、東経144度06分24秒の地点で、6分38.8秒続いた『皆既日食』です。

いやもう首を長~くして、待ってましたよこの日が来るのを。

頭が悪いんで天文ファンって事ではありません。
なぜ日食が起きるのかは何遍説明聞いても頭が痛くなるだけ。ただ、この世のモンとは思えない神々しい荘厳な美しさに魅せられます。

生きてる間に一度だけでいいから目に焼きつくほど見たい。それも日本国内でそれを見てみたい。その機会を逃さぬ様に数年前から段取りをしていました。

よく観測できる場所は限られています。
ただネックは梅雨が晴れやらぬ時期。
天気の崩れはその場所に行かないと分からない。
いくら考えてもこれは「賭け」とか「運命」の類。 その結果は。

晴天でした。
死ぬほど嬉しかったです。

刻一刻と迫るその時間。
興奮しました。

夏の明るさの最中、徐々に薄闇に包まれる。
気がつけば突然夜の暗さ。鳥肌が立ちました。

「ダイヤモンドリング」の美しいこと。
ポカ~ンと口をあけているだけ。

この世の光景ではありません。

「生きてて良かった」心からそう思いました。

恒星とその惑星の衛星が並び、衛星が恒星を覆い隠す。
恒星までの距離と見かけのサイズが合致するから。
だから見かけが恒星と一致してまったく同じサイズになる。
こんな事が偶然に起きるもんなんでしょうか?
有得んでしょう、偶然の一致では。

しかしまぁ、こんな奇跡的な偶然の積み重ねで人類は存在してますし、あまりに奇跡的過ぎるからといって宇宙人やら神がどうだのに走るのはちょいと短絡ってものでしょう。地球に人間って知的生命体が存在してる事自体があり得ない奇跡と考えるべきですからね。

とは言え、太古から天空を支配するのは太陽でして、太陽がなきゃ地球に生命など誕生してはいない。ですから世界各地に太陽信仰があるわけで、日本も例外ではない。

『日本書紀』によれば628年4月10日(推古天皇36年3月2日)に日食があったそうですが、邪馬台国の時代にも2度あったらしい。丁度卑弥呼が亡くなったらしき時期にあたります(247年と248年)
日本書紀の神話の項は日食に因んでいると思われる箇所が頻出してもいます。いかに太陽と神が近しきものであったか知れようってものですね。乱暴な言い方をすれば太陽が神そのものだったのでしょう。ですから太陽が消える日食は「不吉」とする地域も多いのです。

さて板前の性、これだけ感動すれば料理で表現したくなる。
帰宅して色々考えてみました。

野菜を歯車に切り芯を抜いて太陽のコロナでしょうか。
太陽そのものは黄身漬けを使うしかない?
 

しかしそうした前菜系料理は迫力が無い。
昔から月や御日様は「団子」。和菓子でしょうか?

もちろん陰影は「餡」を使うしかないでしょう。
白光と暗黒です。
 

しかしあのコロナの「トキメキ」はとても無理。
色々考えてみても、料理だけではあれは表現不可能。

器で日食を表現するには?

カメラマンがネガを見る時に使う台があります。
中に蛍光灯が入っている「イルミックス」です。
あの様な「うつわ」を作れないか?
何か見えて来たような気がします。
少し走り回ってみましょうかね。

献立内容はこんな感じかな
お品書きと献立書き