こんにちわ。
御節の段取りか…。
父親と、よく時間に追われながらしたものです(笑)
栗きんとんの仕込みなんて、もう…(笑)
今の自分は雇われの身。
父親からもらった包丁を片手に仕事と家の往復の毎日…。
自分はボロボロの包丁。
磨いで元に戻るには時間がかかりそう…。
『これでいいのか?』
この言葉が頭から離れた日、瞬間はありません。
肉体的には、『まだまだいける』ですが、精神的には『参った…』とゆう状況です。
自分が、こんなに弱い人間だとは知らず自己嫌悪。
魚山人さん。
自分、もう分かりません……。
失礼しました。
Posted by カンパチ at 2009年10月23日 15:30
こんばんは、カンパチさん。
自分を追い込んじゃいけませんな。
あのね、
自分が今やっている仕事、そいつがダメになれば死ぬわけじゃありませんよ。生きる方法なんてのはいくらだってあるんです。特に板前はそうで、勤め先がどうなろうと大丈夫な商売なんですよ本来は。つまり今勤めてる所がすべてじゃないってことですよ。
我慢して継続するのが一番大切なのは事実です。
でも人間は「水の合わない場所」では成長できません。
自分勝手で利己的な考えかたに思えるかも知れませんけどね、仕事で成長したいなら「しがらみ」よりも自分を成長させる場所を選ぶべきなんです。自分の料理道に役に立たないのなら例え日本一の料亭の板場でも何の意味も無いまわり道で、人生の無駄使いだって意味です。
肩の力を抜いて気楽に考えてみるのも悪くはないんです。
ここじゃ成長できない。そう判断したら成長できる場所へ行けばいい。
あなたは板前自体をやめる気はないと思いますよ。
でなきゃこのブログにコメントなど書かないはずですからね。
Posted by 魚山人 at 2009年10月24日 00:06
お疲れ様です 祝い事ってのは、作り手も食べる側も、なんとも言えない嬉しさがありますね
お節も食べる側は、お正月で晴れやかな気持ちで、作り手冥利に尽きます
板前…… こりゃ師走も重なり、段取りもクラクラして イラッとしてる野郎ばかり(笑)
けどこのシビレる場面こそ板前で生きてる実感を感じれるのではないでしょうか。
順風満帆なときばかりじゃない。人には言えない秘め事がある ときにもろく崩れそうになる 迷いが自信をなくす 人間、思い詰めてもいけない どこかに出口はある プラス思考で駆け抜ける
性に合わないならケツをまくればいい これじゃどこに行っても同じことの繰り返し
成長したいからこそ一つ上の階段を登る
己を信じて、一歩一歩、歩いてると、道が開けてくる
道があるから歩くんじゃない 歩いたとこが道となる
まったくもって偉そうなこと書いてしまいましたが自分に言い聞かせる意味でも書きました
職人ってなかなか今の時代の職場環境には、ストレスを感じるんじゃないかな…
諦めたらそこで終わりです悩むってことは、悪いことばかりじゃない、いずれ出口が必ず見つかりますから頑張りましょうカンパチさん(^O^)
Posted by たいら at 2009年10月24日 01:28
こんばんは。
たいらさん。
魚山人さん。
心暖まるコメントありがとうございます。
たいらさんの『歩いたところが道になる』
魚山人さんの『水の合わない場所』
この言葉に涙がでてしまいました。
板前を辞めたくはありません。
中学を出てから父親の元で板前の仕事をしだして早くも4年、過ぎてしまいました。
外の世界は広く初めて見る事が多く自分の腕の無さは『池の中の蛙。大海を知らず。』とは、この事。
気持ちの整理がつきました。
水の合う場所をゆっくり探していきます。
魚山人さんや、たいらさんのような親方に巡り会いたいです。
こんな若輩者に良きアドバイスをしていただき、本当にありがとうございます。
北に向かう時は魚山人さんとたいらさんのお店にお邪魔したいと心底、思っています。
本当にありがとうございました。
Posted by カンパチ at 2009年10月24日 23:25
紅白料理の意味
いよいよ秋も深まってきましたねぇ。
そろそろ押入れにしまったCanada Gooseでも出す時期です。このダウンはそこらを歩くときに着るのではなく、逃亡用(笑)でして、どこか遠く、逃げ回る事に想いを馳せてるって按配で。
おいらは衣類も道具だって考えてますんで、おそらく世界で一番機能的で暖かい上着であるコイツを愛用してるんです。たぶんこれを着てれば何処に行っても凍死はしないでしょうし、厚着をしなくてすむのがいいです。
と、まあポカ~ンとそんな妄想してる場合じゃございません。
その前に「おせち」。今年は色々あって御節の段取りがおしてしまいまして、せわしがありません。ぼやぼやしてたらあっという間に12月になってしまいますよ。もちろん忙しないと言っても今から作るわけではありませんが(笑)
ところで、御節と言えば紅白飾りが連想されるものですが、日本人が慶事に使うこの紅白ってのは何か考えた事があるでしょうか。『紅白幕』とか『紅白まんじゅう』はよく皆さんも目にするはずで、祝儀には自動的に使っているんですがこの意味についてはなかなか答えられないもの。
正月の紅白飾り
熨斗(のし)を紅白の水引と併用するよくある使い方。
よく知られてますのが源氏が白旗を、平氏が紅旗を掲げて戦った『源平合戦』を起源とする説。ですがこれは合戦、つまり対抗戦に紅組と白組を分ける慣わしの由来です。(これも説のひとつでしかない)
今は紅白戦や紅白歌合戦が典型ですね。
祝儀とは日本人にとって非日常的な日です。柳田國男のいう「ハレ」で日本人の伝統的観念ですね。赤は出生を意味し白は別れを意味するなどの説もあります。しかし確かに死装束の様に白は死や別れにも使われますが、その反面で花嫁衣裳や赤ちゃんの産着にも使われる。赤飯や花嫁衣裳は昔からあの色がめでたいとされている。
つまりね、紅白がなんで『祝』とされているのか、はっきり分かっていないんですよ。源平合戦のずっと以前からハレに紅白を用いる伝統はあったのでしょうし、本当のところは分からない。
おそらく日本の国名、それに国旗である日章旗(日の丸)との関連もあるのではないか。赤の語源は「あかし(明し)(あかるい)」とも言われています通り、古代からの太陽信仰と無縁ではないでしょう。
ただ古墳時代には太陽を赤で表現しておらず、「金」を使っていたようで、赤で太陽を表現しているのは、法隆寺あたりから。つまり仏教の伝来と関係があるとされます。
しかし学問は邪馬台国の卑弥呼の時代には遡れない。卑弥呼も卑弥呼以前も倭の国は太陽信仰があったのでないか。もしかして古墳の前は太陽を赤で表現していなかったか。それに「金」を使っていたのは偉い方々だけで、庶民の間では連綿と赤で表現していたかも知れない。
何故紅白が死の色であったり、生や旅立ちの色であったり混ぜこぜに使われる曖昧さがあるのか。
説明がつくのは太陽だけです。
個人的にはアカは血の色、シロは塩の色だと思ったりしています。
血液は海水濃度に近く「塩」でもあり、ともに人間の生命に深い関与があります。命そのものと言ってもいいでしょう。
その源は太陽エネルギーにあります。太陽は生命の泉でありすべての恵みの親である。古代の人はそう考えていたと思うんです。
つまり紅白は太陽そのもの、そして人間の命そのもの。それが大昔から日本人の世界観だったのだという気がします。
紅白の使い方に曖昧な混沌さが残るのも、太陽の赤く染まったり白色に輝いたりする特徴を考えれば納得できます。
明けゆく様と、沈む荘厳さはまさに命の誕生と死。
どちらにしても祝儀に敬意を表すことが出来る『紅白』は料理を作る者にとってはたいへん助かります。敬老の日だったか、いつぞやお昼の小懐石にお客さんの希望を入れて飯として出した品ですが、こういう蓮の紅白をあしらっただけで祝膳としての性格を出すことができます。
※まだ完成前の品です
実寸は画像イメージよりずっと小さいです。
自分が齢をくったからなのか、最近周囲で不祝儀事が多いです。近しい人間がやたらに亡くなる。考えてみればもう2010年ですよ。現代と近代の分かれ目である昭和20年の終戦から65年になります。ほとんどの明治生まれは世を去り、大正生まれも卒寿になろうかって時期なんですなあ。
気になるのはおいら達に仕事を教えてくれた団塊世代の先輩達が矢鱈と癌で死ぬ事です。秋色の濃さの中、色々と考えること多しですな。