グレステン包丁『736TSK』
板前稼業も庖丁だけ使ってりゃよいって訳ではなく、くだらねぇ雑用だの野暮用だの、もしくは義理事だの寄り合いだの、色々面倒くせぇ事をしなきゃいけません。
そんなモンうっちゃって庖丁だけに「ひきこもり」してしまいたいのですが、それでまかり通るほど世の中ってなぁ甘くはありません。
「なんで今ここでこんな時間によりによって渋滞しやがるんでぇ!」
「動かねぇなら、車ここに捨てて帰るぜ、おりゃあよ」
もはや「子供化」した爺のワガママ(笑)
ブツクサ言いながら出かけてきました。
古馴染みの後輩板前に少々用事がございました。こいつは鮨時代の仲間ですんでもう30年来の付き合い。
おいらと違って寿司一本でやって来た男です。
バブル期には自分で店をやってましたが、例によってと言いましょうか「色々」ありまして店を閉め、今は会社勤めです。
月に2~4千万を売るそこそこの繁盛店で、総店長というか、総料理長というか部長というか、まぁそんなロクデモナイ事をやっておるようです。
店に入り、呼び出してもらいますと、汚いツラして出てきました。
「うっス」
「ちっス」
(なんてぇ挨拶なんだか。ちゃんとした日本語使えっての 笑)
「ちょっと何かつまんでからでいい?腹減ってんだ」
「いいっすよ、もちろん」
そこでカウンターの端に座り、漬け場を眺めると、いつもの板前がいない。妙な板前が主婦とおぼしき三人連れを相手に無駄口を叩いております。
「総店様よ、***は今日休みかい?」
「いや休憩じゃないかな。俺まだ切りつけあるんで上で待ってます」
「おう、後でな」
くっちゃべってる板前の庖丁をチラリと見ますと、今時珍しい真鍮の口金。{なんだコイツ}
すると、女性の客が「しゃこ握ってちょうだい」
その板前
「ほいきた!ガレージね。ちゃんと車庫証明持ってる?
あたしゃ、あんたの手を握りたいってね」
横で聞いててたちまち食欲が失せましたんで、何も食わず仕込み場に上りました。
サーモンなんぞを切りつけている店長さんに、
「おい、なんだあれ。昭和からタイムスリップしてきたのがいるぞお前の店」
「ああ~あれね(笑) 板が足りなくて。ちょいとね」
「客減らすぞ、そんな構えじゃ。接客を教えろよ、ちゃんと」
「そうします」
「ところでお前、やたら切り方速いね」
「兄さんからそう言われちゃね(笑)。庖丁が具合いいんすよ」
「なるほど、グレステの尺二かい」
「もう柳に戻れないすよ、これ使ってたら。元々コレを昔俺に勧めたのアンタでしょ 笑」
「それは分かるが、まさか漬け場に持ち込んでないだろうな」
「いや中に入る事は無いんで。たまに仕込みを追うだけですよ」
グレステン包丁と仕込み
独特の「ミゾ」で一目でそれと分かるグレステン洋庖丁は、「GLOBAL」や「TOJIRO」と同じくステン刃物のメッカ新潟県にある「ホンマ科学株式会社」というメーカーが作っております。
グレステンとはこの庖丁の鋼材名でして、440-A(SUS・440A)をベースに超低温処理や色々な特殊工程を経て出来上がる「グレステン鋼」がそのまま庖丁名となっているステンレス庖丁です。
「ステンレス庖丁」と聞くと、ややランク落ちというイメージを持つ方がいまだに多いのですが、このくらいのレベルになりますと、値段的にも普通の鍛造庖丁より上で本焼と遜色ありません。
そして切れ味はもちろんの事、あらゆる面で本焼和庖丁を上回ってさえいます。しなやかさ、丈夫さ強靭さ、研ぎやすさ。決定的なadvantageは錆びない庖丁であること。
そしてグレステンの最大の持味は身離れです。
側面の凹みパターンにより肉が庖丁に吸着しないのです。
するとスモークサーモン同様に非常に切りにくいものです。庖丁にからみつき、立て続けに何十個も切るのは困難。チーズほどではないしろね。
ところが世の中には大きなサーモンを何本もネタに切りつけなきゃいけない仕事をしてる人が大勢おります。
生のマグロを3百人分刺身に切りますと、さしもの本焼にても中々にキツイ。こうした事に最高の能力をみせるのがグレステンなのです。
寿司・和食仕込みにはグレステン筋引き
おいらも数種類のグレステを使い分けてますが、
上に書いた用途に最も適するのは「筋引き」です。そしてグレステンの能力を最大限発揮させるなら36cm(尺2)。
Wタイプとか色々シリーズがありますけども、やはりTタイプ。『736TSK』です。尺二の長さを使いこなせば、まさに「万能庖丁」なのですよ。
製造者の意図を越えた使いみち
製造元はこれを筋引き、あるいはスライ専用の洋包丁として出したのであって、当初は勿論「和食・寿司・魚介加工者」が仕込みに重宝するとは考えなかったでしょう。
時代の変遷が新しい仕事の段取りを求め、その時代の要請にドンピシャリだったのだと思います。
牛刀と違いまして、スライサーの類は板前がよくやっているように「片刃に改造」した方が使いよくなります。改造と言っても和庖丁でいえばシノギ面のエッジをややハマグリに砥ぐだけの話で、要は柳を研ぐ感覚で研いでいればいいのです。
こうして無理に片刃気味にして使うのは好ましくはありませんけども、あきらかにネタ引きが具合よくなるし、万能性が増すのですよ。
裏で仕込みに使う庖丁で、ゴールデンウィークとか年末の大量仕込みに、これ以上ピタリとくる庖丁はなかなか無いですね。
※ただしこれはある意味で邪道なのを知っておきましょう
736TSK(グレステン 筋引き庖丁36cm)
家庭向グレステン庖丁
グレステンはその作業効率の良さとか、丈夫さから、プロに好まれる庖丁ですが、「これは料理が、庖丁で切る作業が、とても楽しくなるだろうな」と思う、つまり「庖丁を持つのが愉快になる」と思える家庭向きに優れた庖丁も出ております。
ハンドルと刃に大きな段差があるアップシェンクのスタイルは、刃先だけがまな板に接地し持ち手が浮くような設計です。
料理人生は包丁だけではない
打ち合わせを終え、帰ろうとして下へ向かいますと、丁度さっきの板前が上ってくるところ。休憩でしょうが何か縁でもあるんでしょうかね(笑)
「親方、さっきはすみませんでした」
「いやこっちこそ何も言わず消えて申し訳ない。また今度よらせてもらいますので、その時は宜しくお願いします」
おいらよりも多分一回りくらい年輩でしょうか。
礼儀は礼儀、自動的に頭を下げました。
多分昔はそれなりに良い店で、華を咲かせてもいたんでしょう。
明日の仕事も知れない臨時をするしかない現実。
この首都圏にはこういう板前が相当な数いるはずです。
おそらく良い時期には本焼などの尺超え庖丁を使っていたかもしれない。えてしてそういうものです。
「庖丁視野狭窄」に陥った可能性もある。
「板前臭」を出しすぎたのですよ。
柔軟でなければ庖丁技が優れても人生をしくじる。
そういう意味です。
それはおそらくグレステンの機能を理解できない事と同じ意味だという気がします。
2010年04月30日