使い古した包丁

  

今年、一人の板前が店をあがって帰郷しました。
東北のN県で農業を営む親御さんに不幸があり、長男である彼は家業を廃さぬ為、帰るしかなくなったのです。



彼の板前歴は9年。
そのわりに肉のよく付いた板前らしい掌をしてましてね、手相もかなり薄くなっておりました。このブログにも何度か彼の掌が登場しております。

「おやっさん、向こうが落ち着いたらまた戻ってきてもいいですか?」

「いや駄目だ」
「農家も商売だよ」
「商売は甘いもんじゃねぇ」
「駄目なら板前に戻ればいいって考えじゃ潰す」
「今までの事は忘れて集中しろ」
「もうここには絶対戻ってくるな」

殺生な言い方かも知れませんが、彼の将来を思えばこそです。
逃げ道があれば人は必死になれません。
畑が違う職に横から入り、モノにするには必死さが不可欠。

農作物は生き物です。
生き物を一から育て上げるのが、どれほどの苦労かを彼は思い知るでしょう。
最初の1年でへこたれてしまう可能性は高い。

[オレは板前としてメシが食えるんだ]

そんな気持が起きるのは一度や二度じゃないでしょう。
そうした辛い時に彼の根性が試されます。

彼はね、板前になって数年目に彼女ができました。
結婚する気でローンを組みマンションまで購入しました。
とかろが知らぬ間に彼女は離れて行き、どこかのヤサ男と一緒になってしまいます。
やけっぱちになっても仕方がないほどの悲惨な状態ですよ。

しかし彼は耐え抜いた。
荒むことなく、真面目に仕事をやりました。
多少口数は減りましたが、これは当然でしょうな。
(裏では泣いていたのかもしれませんけどね 笑)

彼なら作物の面倒を細やかにみてやれるでしょう。

ローンの残ったマンションはいったんおいらが買い取る事にし、愁いを断ち、彼を送り出しました。若い板前達はおいらにとって弟とか息子といった感覚です。家族同然ならば、戻ってきて欲しい気持はない訳はではありません。

しかし巣立っていく鳥が巣に戻る事はない。
自分で新しい巣を作るのがこの世の掟です。

全員が二日酔いになった送別会の翌日、
彼は上野駅の電車に乗りました。

見送りには絶対来ないで欲しい。
そういう彼の言葉を容れて、見送りはなし。
おいらも彼に「行かない」と言ってあります。

しかしコッソリと(笑)ホームに紛れ込んでおりました。
素っ頓狂な面をして、おいらを見る彼に、

「おいらが一番使い古した庖丁をやるから、持って行け」
「なんで新品をやらねぇか、その意味は分かるな?」

意味が分かったのかどうか・・・
いい歳をした大の男が、涙腺をゆるませた様です。

「ドラエモンみたいなツラして泣くんじゃねぇ、このヌケサク!」


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