包丁と板前のウデ
「包丁をみれば、その板前の腕が分かる」
そういった意味のことを何度か書いております。
それは本当なのか?
本当です。
包丁を一瞥すれば、その板がどんな板前なのか即座に判別できます。人となりや性格や考え方や、もちろん仕事の良し悪しも分かります。
だだね、
誤解している方がかなり多い様子ですので正確に記述しておくことにします。
分かるのは【使い込んだ包丁】のみです。
条件は【その本人が使い続けている包丁】
いくら抜群の良い包丁であっても【新品】では何も分かりません。
それで分かるのは包丁屋の腕だけ。
おいらは、【玉鋼包刀】だの、某匠が打った【山に月】だの、【ボブ・クレーマー】だのといった、仕事使いにはできそうもない包丁を所有しておりますけども、こうした物は縁あっての事であり、決して自分からマニアックに求めた品物ではありません。(ボブは少し怪しい^^;)
いずれも購入すればお安くはない(と言うより希少で購入自体が難しい)逸品ですが、このような禍々しいばかりの妖しい輝きを放つ悪魔の様な包丁がどんなに美しかろうが、それと持ち主の腕前はまったくの無関係です。
包丁を見て板前の腕が分かるケース
包丁ってのは、裏押しを見れば新品かどうかすぐに分かります。
見事なシャッポは研ぎ師でなきゃ無理。
(本刃付け無しなら切っ先と棟を見ます)
包丁のここを見れば板前が分かる
問題はね、包丁屋が一生懸命誂えた素晴らしい姿形が「いつまでもつか」なんですよ。
仕事で使ってれば数ヶ月でその板前のクセが包丁に出ます。下手糞なら1年経ずにツル首にしてしまうでしょう。
まして数年も使い込めば個性がハッキリと出ます。その包丁は持ち主とそっくりな形になってしまうのですよ。思想は大袈裟としても、物事に対する姿勢などは、その形に顕われてしまうんですね。
何故かズボラな人間は絶対に刃線や鎬筋が歪むのです。
逆に、背筋をのばせる者は包丁を真っ直ぐに研ぐんです。
考えてみれば不思議な話ですが、事実なんですよ。
数十年板前を続け、若い時はかなりの数の板場を回っています。で、その経験から断言できます。
「上にあがれる板前の包丁は素直な良い形をしている」
「何十年板前をやっていても性根が曲がった者は包丁が歪な形」
まぁ、職場で出世するには腕以外のプラスアルファが必要でしょう。なので必ずしも上にあがれるかどうかは分かりません。
ですがこれだけはハッキリしてます。「板としての腕は良い」
板前の値打ちは包丁の姿
包丁を購入するのは愉しいもの。子供のような気持ちでワクワクして当然です。それは誰しも同じことで、例外はないでしょう。
ですが、くれぐれも勘違いをしないで頂きたい。新品の包丁には何の値打ちもないのです。
大金を出して買った鏡面の本焼でも無意味。それに意味があるのは鍛冶屋の技量だけで、買った者には何もない。
その包丁の【本当の価値】が出るのは数年後。
包丁鍛冶の腕が良いほど鎬と刃線は安定しています。数年してもその線を崩さないで手入れを出来ているかどうか。打った職人の意を汲んだ形を保っているかどうか。
それによってその包丁の、つまりその板前の値打ちが分かるのです。
今までどれ程の数の板前と接してきたか分かりませんが、その数は記憶するのが不可能なほど多数。面接もすれば助を頼むケースもあったりしました。使いモンにならなければお引き取り願いますが、帰ってもらう人の殆ど全部がコンコルドかそれに近い包丁。それかサラの新品。
一年やそこらで刃線を歪めるのは問題外。たとえ何十年使っても包丁鍛冶の意図を残す板もいます。
関西の「まいど」さんが投稿してくれた柳とかね。包丁を打った土井さんも、これなら満足でしょう。
下の柳は20年以上の使用。有次です。
板前歴50年を遥かに超える爺さんの奴です。
この歳になってもまだ、この手入れ。言葉も無い。死ぬまで働き続けてもらいたいと真剣に思います。
包丁を真っ直ぐ美しく研ぐのは簡単です。
人の事ばかり気にしないで、自分自身と向き合えばいいのですよ。
他人が動かなきゃ自分が動けばよいこと。
他人を責める暇があれば自分の至らなさを反省すること。
沢山働く事を「損」などと考える、情けない小さな人間にならぬようにすること。
性根が曲がってしまったなら、いったん板前を辞めるなりして冷却期間を置いたほうがいい。そのまま続けてもどうせロクなモンにゃなれませんので。
【背筋をピンとのばして毎日を生きる】
包丁を素直な形にする秘訣は、それだけなんですよ。