つけ場の庖丁
つけ場に立つ事はめったにありません。
任せられる板がいるからです。
グローブの様にデカイ掌をした板前ですが、手に似合わず細かい神経を配れる男ですので。少なくとも尾筋を残したネタなどを握って出すなんてことは絶対にしませんし、板前に必要な繊細さは十分備えております。
もちろんウロウロはしています。
書き物他年々多くなる雑用をできるだけ早く切り上げて、お客さんに顔を見せるようにしてますんで、客席周辺やカウンター内をチョロチョロすることになります。つけ場に立つとは庖丁を持って板の前に立ち仕事をすることです。中に入って板前の後ろで背後霊になっていることではありません。
それでも時々は場立ちする事もあります。
自分の庖丁を持ってつけ場に入ります。
つけ場で使う包丁
つけ場に差し込む庖丁は二つ。
『ムキモノ』これはネタを切る以外の万能庖丁として。
おいらは仕事が終わると心から感謝したい気持ちになります。
「今日も無事一日仕事をさせてもらった」
「庖丁を持つことができた」
本当にありがたいことだと思うんですよ。
長い間こうして働かせてもらっている。
すべてはお客様あっての話です。
そのお客に対して感謝の気持ちを顔で伝えられぬ支店の構想などもってのほかです。おいらは一人しかいませんので顔も一つしかありません。
普段は柳刃系の庖丁を使う事が多いし、裏ではそうしてます。でもね、柳刃はご存知の様に切っ先が尖っています。おいらなりの気持ちとして、大恩のあるお客さんにこの尖った切っ先を向けることは出来ません。
ですのでもう一本の庖丁はこんな剣型を使っています。
これはお客さんの席から見た(撮った)位置です。
これは自分流の考え方ですので、もちろん柳で結構ですし、うちの板もそうしています。少々神経質なのかもしれません。
しかしおいらは感謝せずにはおれないんですよ。いつの時代でも、この不景気な時代になっても、変わらず来店して下さる。だから毎日仕事ができます。とてもじゃありませんが鋭く尖ったモンを向ける気にはならないのです。
今日も庖丁が持てました。本当に有難う御座います。
これは店のお客さまばかりではなく、顔も何もまったく分からぬ魚山人とやらいう者のサイトに、何かの縁でご訪問してくださった方々に対しても、きっと同様なのだと思います。庖丁の輝きは自分の為ではなく、お客様のためなのかも知れないと感じたり致します。
さあ、明日も早い。そろそろ腰を上げるとします。
良い休日を。
【つけば】の意味 漬け場と付け場
「漬け場」とは、寿司が発酵食品であった大昔の名残り言葉です。現在この言葉に相応しい仕事をしてるのは滋賀のフナ寿司漬けくらいのもでありましょう。
今の鮨職人の仕事は江戸前からさらに生物売りが主流に変化しました。江戸前の仕事ですら「早なれ」→「早ずし」が古典であり、その後は調理場でする仕事は「煮物」か「玉焼」くらいのものです。漬ける仕事は「〆もの」程度。
江戸前寿司とはその発生当初から(屋台主流の頃)、漬けの仕事とは距離があったのです。(握りが完成するまでは漬けていましたが、シャリ酢の発達にて漬けの江戸前は消えたのです)
したがって板前は裏の調理場を特に「漬け場」と呼ぶ事はありません。寿司店の場合、たんに「裏」、あるいは「厨房/調理場」、もしくは「仕込み場」と表現します。
しかし小さな個人店では、これらの仕込み、調理、販売の一切をカウンター内のスペースでやっています。裏には「シャリ場」のスペースと玉を焼くコンロを置くスペースくらい。この場合のみつけばは調理場であると言えます。
大きな和食店には、洗い場(みがき場)、揚場、焼場、煮方(ストーブ)、八寸場、そしてお造りを切る板場(刺場)などがあり、寿司カウンターがあるならそこを「つけば」と呼びます。
これ等の事から現在の板前にとって「つけば」は寿司カウンター内部の事を指し、「漬場」という字体も意味を失っておりますから、【付け場】の字を用いる様になっております。
お客様にカウンターから鮨を握って出す時に「鮨をつける」と言いますが、こうした事からも「漬け場」が「付け場」になっていったのです。
(本来は「 漬け台」に乗せるの意だが実態が本意を超えている)
現在の実態から鑑み、もはや「漬け場」とは寿司を「付ける」【付け場】になっているのです。もちろん「漬け場」が正しいのですが、徐々に「付け場」でも間違いであると言えなくなって来ているのです。
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お疲れ様です
今日の記事は 板前だけではなくサービス業 物作りにたずさわるすべての人間に響くものだと感じました
人間関係 家族 夫婦間も ありがとうって感謝の気持ちを持てないと 歪みがでる事もあります
結婚当初から かみさんとありがとうは、目をみて、なるべく言葉にだそうってやってきていまして 今のお客様に対しても同じで 心の底から感謝しています
かみさん子供の飯はお客様から頂いているとおもっていますし 自分の包丁もお客様に来て頂いてるから 買えるって 自分の中じゃ思えるんですよ
不景気ってやつで尚更感じますね 身銭切って楽しみにして来て頂いている 肉体的にも精神的にも、キツい時もありますが 傲慢で押し付けの感性で作った物なんか なんにも喜ばれない 忙しくても ぶっ倒れそうになっても お客様が喜ぶものをって 想いを込めたものが 美味しい 嬉しい ありがとうってお客様に言われた時 人は幸せになるんじゃないのでしょうか
人はかならずみているものです
真っ直ぐやっていれば チャンスも広がる 必要とされる 板前の世界にしか生きていない自分ですが最近こういう思いをよく周りに話しています 喰うのに精一杯 それと比例して、どんよりするんじゃなく やるだけやってみようやって。。 ここのところ魚山人さんへの書き込みは こんな思いをたらたらと書いてしまいます(><)
若い子や同業の連れが 迷ったりしているから余計、そんな思いを腹に蓄めてるんでしょうかね…
包丁の切っ先は充てられないって自分なんかとレベルがちがいますね…すごいです。
磨くことは 少なからず自分もお客様の事を考えてやっています 本音は半分は鏡面にしないと気が済まないって(笑)けど時々お客様が言われるんですよ 光ってるねぇって そんときに思うのが 小汚い刃物で お金を頂くものは切れないって。これは伝わるものだと思いますし(^O^)
尺一で研ぐのは三日に一度 1日バタ仕事でも仕上げを充てればすぐ戻ります 磨きと言っても 平の鏡面までいきたい 一本一時間では目立たないバフ目までは消せない 腕が痛くなりますが あの手この手で鏡面にした包丁を 朝カウンター前に置いたとき 今日も精一杯やるぞって(^O^)
包丁を磨かなくなったら 自分は板前潮時です
よい記事をありがとうございました。
先週東京に行きましたが平日の夜はすこし寂しい思いがしました繁華街ではなかったからかな? 東京タワーの色が変わっていて 田舎者の自分なんかは あはっ なんて思いました(笑) 東京の海老屋さんと来週はじめて取引しますが 楽しみです 年内には築地に行って色々見てみたいです(^O^)
Posted by たいら at 2009年11月08日 19:16
おつかれさまです、たいらさん。
相変わらずですな。あなたのコメントには何も付けたし様がない(笑)
まったくその通りだと思うからです。
板前仲間達の苦悩は想像できますよ。
唇を噛んで、腹をくくり、手前の腕を磨き、庖丁を磨き、納得のいかない軽いモンには迎合しない。それで結果がどうなろうがそれが人生。ジジイになってよいツラがまえになってりゃそれで良し。おいらに言えるのはこのくらいです。
今日はエールの意味で話を拡大してみましょうかね。
東京は場所によりけりです。
変わらず賑わっている場所もあれば寂しいところもあります。
正直なとこ、日本はもう昔みたいな状態には戻らないと思います。世界は繋がりながらシフトをしていて、日本の出番は去ったと考えて間違いないでしょう。悔しい気持ちはあるが中国の番なんですよ、もう。
しかしその中国の時代も長くて30年で終わります。
また時代はシフトを迫り、繁栄はどこか他所に移ります。
若い人には早く発想を転換して欲しい。
過去にしがみついても無駄です。重厚長大的なものの考え方はとっくに終わっています。集団で突き進む時代ではなく、個々人の独創性が必ず重要になるでしょう。日本がそうであったように今まさに繁栄の扉が開いた中国も集団で突き進む道を選んでおり、それは必ず人間の空洞化を招くでしょう。そして後悔する。日本みたいにね。
やがて気がつく。
経済的繁栄より人間的な深さが大事なのではないか。
人としての幸せは結局他人に思いやりを持つことではないのか。
毎日ギスギスした小金持ちの生き方よりも、優しい気持ちで日々を過ごす方がどれだけ人間らしい暮らしか。
いつか巡り巡って必ずそこに辿りつくはずです。
人間を真剣にみつめる。
これは裏返せば自分の醜さを直視し、そこを捨てていく作業でもあります。我を捨て他人を呑み込む、ですな。
今の日本は経済とは無関係な部分、経済よりもはるかに重要な問題で崩壊寸前です。それは人同士のコミュケーションがゼロに近くなっている事象ですよ。今の若者は核家族化初期から三世代目、すでに親たちの世代からもう他人と普通に接触する能力が欠落しています。
「個性の時代が来た」なんて言われてもう30年以上、結果は人と満足な会話すらできない人間が増殖しただけ。
ホンネを語れる相手がいない人達の数はいかばかりか・・・
まずは友をみつける事から始めてもらいたい。
そこからです。
若い人にアドバイスしたいのはね、パワーのある友人をみつけて欲しいってことです。そのパワーとは見かけが派手な人って意味ではありません。
礼儀や仁義の欠けた人は駄目で、例えばそうですな・・・バタ仕事の多い板前って疲れる仕事などしながらでも、腕が痛くなるまで庖丁をね、あの手この手でピカピカに光らせる人でしょうか(^^)
世はすべて商売。
商売ってものは未来永劫「人」なんですよ。
Posted by 魚山人 at 2009年11月09日 01:35
お疲れッス。
っかし…爺ゎ鏡だな
改めて尊敬してやるよ
切っ先を向けネェためなら
俺も蛸使いだから一緒
ヾ(≧∇≦*)〃
冗談だよ(笑)
あのね
俺も一応 お客様に対してこだわりがあんだよ
そりゃね 鮨屋の数符丁
『あがり』や『ガリ』も符丁の一部だ確かに…
しかしね あのピン リャン…
馬鹿にしてると思うのよ俺お客様を…
だから使いません。
実際 実直な商売(人)してんなら本来必要ネェんだもん
もしも 爺のblogをたまたま読んだ方が 剣型の包丁見た時に『その包丁ゎ お前サンの心くばりかね』←なんて言葉を頂けたら 死んでもイイな(笑)
ずいぶんと減った剣型だこと…糞ジジイの乱暴さに堪え しかも勝手な上に筋を通しやがるから面倒な 持ち主に可愛がってもらい
減っちまったんだろなぁ
がな!心配すんなよ剣型包丁君!主のジジイも おそらく剣型包丁君を手に入れた時よか 君みたいに丸くなってるはずよ
今日の記事に素直になれネェ未熟者なヤツのコメゎ こんなんが精一杯ッス…
早朝草野球 逆転負けしたしな( -"-)
Posted by 鯔次郎† at 2009年11月09日 02:37
おつかれさまです鯔さん。
>素直になれネェ未熟者
そのくらいの年齢になってね、鯔さんほど素直な男はめったにいるもんじゃありませんよ(笑) おいらはそう思っています。
深夜仕事の板が朝っぱから草野球。
息子たちにとってはアニキみたいな親父だろうし、その息子にはケジメってものをちゃんと教えてやってるに違いないと思います。
少なくとも公共の場所、例えば乗り物の車内とか、他人が大勢いる場所ですが、そんなとこで人様に迷惑をかける行為を我が子がしても、叱ることも出来ないなさけねぇ親ではないと想像しています。
おなたがいつまでもリーゼント兄ちゃん風であってもね、心配は要りません。子供は親の本質を見抜くものです。ちゃんと「人間の基本は礼節にある」って事を自然に会得し成長していくだろうと思います。
Posted by 魚山人 at 2009年11月09日 14:15