鮓(酸)から握り寿司へ

  

スシの歴史

握り寿司の歴史

寿司好きの日本人は珍しくも何ともなく、スシという食べ物は日本の国民食に近いですよね。外食業の売り上げランキングの三位がラーメン、二位が焼肉、そして二位を大きく引き離したダントツの売り上げを誇るのが一位の寿司ですから、これは間違いないでしょう。



当然寿司に関わる仕事をする人も多いはずで、そうではなくても寿司が大好きだって方も大勢いることでしょう。しかしそのスシがいったいどんな食べ物なのか説明できる人が、その中にどれだけいることでしょう。

文献を開けば良いようなものですが、難しすぎて最後まで読む事すらなかなか出来ないものです。そこで今回は、スシの由来をできる限りにおいて分かりやすく単純にまとめておこうと思いました。

スシとは何か

(一) スシの原型

寿司は鮨または鮓と書く
ともに国字ではなく漢字である。
従って原型は中国にある。
そして鮨と鮓は別の食品である

鮨(シ)
紀元前3~4世紀頃の中国古代字書『爾雅』に塩辛(ウオビシオ)として紹介された。食材を塩漬けにした食べ物。塩辛。

鮓(サ)
別の古代書に蔵魚として書かれている。塩と米に魚を漬け込んだ保存食である。

関西で鮓の字が多く使われ、関東では鮨の字を好んで使う。その傾向の原点は上記の理由による。

ところが理由はまったく判然としないが、中世の中国では鮓が完全に姿を消してしまい、辺境の地で少数民族の郷土料理として僅かながら現代に名残をのこすのみである。

*中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』(1966年)では「ラオスの山地民やボルネオの焼畑民族」の焼畑農耕文化複合の一つとされている。

*篠田統著『すしの本』(1970年)は、東南アジアの山地民の魚肉保存食を寿司の起源とあげ、高地ゆえ頻繁に入手が困難な魚を、長期保存する手段として発達したものとしている。

*石毛直道・ケネス・ラドル著『魚醤とナレズシの研究 モンスーン・アジアの食事文化』(1990年)では、東北タイやミャンマーあたりの平野部をあげ、水田地帯で稲作と共に成立した保存食が寿司の原型だろうとしている。

(二) 日本最古のスシ

中国本土で姿を消した鮓が日本にお目見えした最古の記録が大化の改心から数十年後の天門年間。元正天皇の養老二年(718年)に制定された法典「養老令」には「鮑鮓、貽貝鮓」などが書かれている。

奈良の平城京址から発掘された木簡にもこの種のものが記されている。これがどのような食べ物だったのかは分かっていないが、古代中国の鮓と同様のものであったことは間違いなかろうと思う。

(三) 何故「すし」の名が付いたのか

貝原益軒(1629~1714)の「日本釈名」(1699年)に「鮓=すし」の記述が始めて登場し、後の1719年に新井白石(1656~1725)が「東雅」の中で「スは醸也。シは詞助也・・・・・・」と書いており、この大学者ニ名はスシの味は酸っぱいから酸し(すし)であるとしている。この下敷きは『新選字鏡』(899-901年)と『倭名類類聚抄』(931-938年)で、「鮓」の読みは「酒志」、「鮨」の読みはに「須之」とある。

他の多くの外来語と同じく、サ(鮓)とシ(鮨)の音が徐々に訓じたと考えてもよいのではないか。寿(ことぶき)の司(つかさ)と書いて寿司の字を当てたのは、江戸も後期から明治にかけての時期であろうと思われる。もちろん考案された当て字にすぎない。

(四) ナレズシから江戸前寿司への歴史

近江のフナ寿司は千年余の歴史を誇る。卵巣を残して内蔵を除き、塩漬けにしておき、それを塩抜きして飯ではさみ重しをして発酵させる。これが『なれずし』であり、(二)で書かれた最古のスシ(鮓)はおそらくこれであろうと考えられている。飯自体の自然発酵により生まれる乳酸菌などによる保存食である。

しかしこのなれずしは数年もの間漬けなければならず(4年物が上とされる)飯は除いて捨て、チーズ状の身を食べるだけであり考えてみれば豪奢な食品でもある。そこで室町時代あたりから急速に広まったのが『なまなれ』(生成/なまなり)である。これは長くて2週間くらいの即席漬けであり、飯も食えるという利便性から各地に伝播している。

紀州なれずしにはこんな言い伝えがある
【源平の世、和歌山のある里に隠れていた平維盛に追ってがかかり護摩壇山に逃れた。それを聞いた配下の一人が炊き立ての飯と塩サバをもって山中をひたすら走る。その飯を食べたら美味しいなれずしになっていた。これが紀州なれずしの始まり】

もちろん後世に作られたお話であろうが、たいへん面白い。現在各地でなれずしと称するものはほぼ全部がこの『生成れ』であり、これに対して近江のふなずしは『ほんなれ』と呼ばれる様になった。

酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早める工夫が各地でなされたが、寒い地方では乳酸菌が発酵するのが遅いという理由もあり、麹も加えて漬け込む『いずし』が発達している。北海道では元々米麹に魚などを漬け込む『きりこみ』なるものが存在していて、これに飯も加える様になった。

江戸期に入ると清酢が登場する。
これをスシに使い始めたのが誰かは知らないが、
(「松本善甫という医者が延宝年間(1673-1680年)に酢を用いたすしを発明し、それを松本ずしという」 岡本保孝著『難波江』)*定かなのかどうか証拠が少ない*
酢の強力な防腐作用を利用した『はやずし』が誕生する。

酢は酸味もあり、発酵を待つ必要も無い。早寿司の所以である。これは酢飯を箱に詰めて魚貝を並べおき、押し蓋で圧して作る『箱ずけ』であった。『コケラ』とも言い、関西寿司でいう『箱ずし』である。

1687年刊行の書に最初の江戸前寿司が登場。中央区日本橋辺りにあった『近江屋』と『駿河屋』がそれである。出していたのは『ほんなれ』と『はやなれ』と『はやずし』の混成だったと思われる。

しばらく後の1695年刊の『本朝食鑑』には酢を使ったすしが明記されている。箱ずしは切ってから出したので『切りずし』とも言う。この一切れを隈笹で巻いて軽く重しをかけたのが『笹巻きすし』であり別名「毛抜きずし」とも呼ばれた。

この毛抜きすしの一個を元に考案されたのが『握りずし』なのである。「妖術という身で握るすしの飯」 これが握り寿司の文献的初出。

創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「砂子鮨」堺屋松五郎ともいわれるが、與兵衛自身「以前に発案者は大勢いた」と言っている。もっとも成功した代表的な創案者だったのだろう。

どちらにしても文政年間(1818-1831年)には握り寿司は完成したらしい」。その後関西や名古屋にも広まっていく。寿司屋には屋台と内店があり、屋台は庶民のものであったのだが、第二次大戦の戦中戦後の食糧難による規制などで、高級料理に位置付けられていた。

現在の様に再び庶民に普及を始めたのは、1958年に大阪で開店した回転寿司店「廻る元禄ずし」や、持ち帰りずし店「京樽」や「小僧ずし」も開業して、安い価格で一般に広めてから以降である。

以上駆け足でスシの歴史をおさらいしましたが、ルーツがなんであれ、日本の、殊に江戸前寿司は、世界に類の無い日本独自の料理として完成しており、その完成度は世界の何処に出しても恥じないほど高度でありますね。だからこそsushiは世界中に広まっているのでしょう。

儲け主義に傾いた企業論理により寿司の世界も良い意味でも悪い意味でも変化しておりますが、日本人が寿司を愛する限り、必ず次世代の寿司職人は育つとおいらは信じております。


箱寿司

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