献立をたてる
飲み物や食卓の雰囲気まで含めた全部を順序立てして、食べる人にすすめるのが献立の意です。
ただメニューを作るだけでなく、今風に言うと、食の空間全てをコーディネイトするって意味になりますか。
しかしまぁ、一般的にはメニューを書く事と解釈してもよいでしょう。
板前は、年季の最終段階として、この献立に悩まされる事になります。拙い筆を舐めながら、字の汚さに辟易しつつ、それをいささかでも隠すために慣れぬ行書でメニューを書くはめになるんですね。
これが悩みます。
なにしろ十年という単位で、包丁を弄る立ち仕事、机に向かって筆なんてのは、忘却の彼方です。
白い紙を眺めるだけでため息が出ます。
これも慣れるまでには年月が必要ですね。
しかし慣れてみたところで、産む苦しさが和らぐものでもありません。
何かを新たに創るというのは、決められた時間、制限のある空間(職場)では、なかなかに難しい。
アイデアは出そうとする時に飛び出してくるものじゃない様です。
これを否応も無く、やるしかない家庭のおかみさん。
休みという日が無い主婦の方には、本当に頭が下がる思いです。
でもそれでは仕事になりませんので、いつしかコツを身につける様になって来ます。
まず、メモを手放さない事。メモ魔になるよう努力するんですね。
これは個人差があり、おいらは向いてませんが。
アイデアはすぐに消え去ります。
消えたらもう二度と着想出来ないと考えるべきです。
そして、着想から構想、全体の構成、献立の語句にいたるまで、
【わかりやすく】する。
この分かり易さが肝心になります。
一般の人が理解できない物は、ごくマニアックな方しか食べれない料理になります。難解さをもてあそぶのは趣味でしかなく、仕事とは言えません。極端な言い方をすれば、我々はGoogle本社の社員じゃない。
ちょっと例えが違うかも知れませんが。
『夕餉の趣向に手毬の麩を・・・・
なんて、献立の枝葉末節をこのブログに書き始めたら、それは明らかに「違う」と思うんですよ。
そんなものは、各日本料理の会派や団体の先生方が、昔から延々とやっていまして成果を挙げている。
深く知りたい人はそんな物を読むのであって、そもそもこのブログを見ないと考えられます。
人が分かり難いというのは、漢字だけの文章は読み難いという事なんですね。
張り切ってみても、自分がよく分からぬ献立は、人様は食べてはくれません。
良いアイデアが浮かんだとして、それを己の技量の六割から七割に抑えてメニューを組む。
それがお客に出せる献立というものです。