板前人生最後の料理
自分がされて嬉しい事は他人も嬉しい。
結局料理の原点はここにあります。
つまり料理と言うよりも人間としての原点です。
【料理修業の仕上げは人間修行】といえるわけです。
ですから料理は作り手により万華鏡の様に違ってきもします。
その域に到りましたらもはや料理に巧い下手はありません。
美味い不味いですが、
世界一のシェフが作った料理を365日食べれられるかどうかです。
自由が許されるなら多分誰も食べられないでしょう。
人の味覚に枠をはめるのは不可能です。
誰かが究極だと太鼓判を押したところで、それが仮に納豆/梅干だとしたら西洋人には美味を感ずる術がありません。
(稀に好きな方がいますが特殊な例外はキリがありませんので除外)
これは極端だとしても、子供時代に憶えた味に対する郷愁がその人の食嗜好を決めるのは確かです。
人の味覚は千差万別が当然であり、『万人に合う料理』などは考えるだけ無意味な事である。こう言えると思います。
ですからね、「誰が食べても美味しい料理を作りたい」
これは料理ビトの性ではありますけども、根本的に正しくない考え方なんです。
ですけど料理人としてこの考えを放棄することも間違いです。
ではどうすれば良いのか。
【味は常にひとつしかない】
この和食の至言がそれを解決します。
なぜ一つの味しかないと板前は言うのか。
「修行の末誰にも負けない味付けを獲得した。自分だけの味」
この解釈をおいらは採りません。
まして「均一の味にする事」は論外。
技巧に走りがちな和食を根幹から否定している言葉だと解釈します。
「味は常にひとつしかない」の意味は何か。
それは素材の持ち味が一つしかないということです。
その材料が本当に旨くなる地点は一箇所しかないんです。
極端な話、味をつけるのは間違いなんですね。
厳密に言えば味付けのポイントは【ひとつ】以外に無い。
それが和食の到達点とも言えるんです。
その材料に見合った味付けはこの世に一つだけしか存在しません。
簡単な例をあげればね、刺身は山葵と醤油でピタリと決まります。
正直言って魚って奴は普通の人間には魚臭くてたまらない訳ですよ。
とてもじゃないが口にする気にゃなれませんね、丸の素材じゃ。
あんな生臭いものを、この方法で魔法の様に美味に変えちゃう。
この手法が確立するまで何百年の間庖丁人達が試行錯誤を繰り返して来たかって事です。
もし許されるならこう言い換えましょう。
自然の食材を神が創ったとして、神の手は一箇所だけ最高の部分に力を入れたはずです。
【その部分】を人の手で再現する。それが「一つの味」なんです。その部分を「個性」と表現してもいいでしょう。
ですから料理は作るものではなく、個性を引き出す演出にしかすぎないのです。
作る気持ちが前に出れば素材を死なせる事になり、料理人の90%以上はこのジレンマから抜け出せません。上手に作りたいがそのまま自分自身の押し付けである事に思い至らないからです。
自分を出すのではなく、素材の「秘密」を引き出してあげるのが板前の最後の仕事なんです。
人間を修行しなければならない理由はここにあります。
自己の我ばかりを言い立てる現代的思考でもって、「素材の秘密」を引き出す事など不可能ですし、まして「一つの味」に到達するのは無理と言うものです。
不快な事をされれば人は怒ります。
それと同じく口の無い食材は頑なに秘密をガードします。
人が慈しむ心に、初めて食材は軽やかに秘密を語り始めるのです。
最終的な料理の鍵は素材が握っているんですよ。
板前になった以上は死ぬまでにその域に到ってみたい。
触れる食材達の「ひとつ」を引き出してみたい。
そう思い語りかけてはいるんですが、返事はなかなかくれません。
どうもおいらはまだまだ「優しさ」が足りません様で・・・・・
板前修業は終わりがありません。
Posted by 魚山人 at 2006年