旦那の料理と夫婦の関係
料理を作る行為に苦痛を感じた事はございません。
家庭に戻ってもそれは同じです。
その料理を食べる相手がかみさんだけですんで、むしろ家庭料理の方が楽しくすら感じます。
つれあいとして相手がどんな料理でどんな反応を示すか知り抜いておりまから、板前としてではなく旦那として愉快なのです。
豆ひとつに非常な手間隙をかけるのは、やはり妻の喜ぶ顔を見たいからに他なりません。
なぜこんな事ができるのかと言いますと、妻はめったに家に居ることが無いからです。仕事が多忙で最近は海外にいることが多く、帰宅しても書斎に籠りがち。二人でいられる時間は食事くらいのもの。
だからせめて貴重な時間を大切にしたい。その方法がおいらの場合手料理なのです。心を込めて作るから、かみさんも喜ぶ。
これを知った周囲の連中は最初冷やかしやら、中には皮肉を言う者もおりましたが、おいら自身はまったく、全然、針の先ほども、この行為を恥ずかしいとは思った事がなく、「亭主が女房に料理を作って何が悪い?」ってなもんです。つまりそのような者は相手にしない。
もともとかみさんに求婚する決意をしたのは「食いっぷりの見事さ」ゆえです。こんなに幸せそうに、しかも天真爛漫な子供顔で飯を食える女性は他にいないと思いました。料理人である以上、この女性と結婚しなければならない(笑)、そう感じたのです。
おいらはここ数年テレビのスイッチを入れる事が無く、かみさんもTVは海外チャンネルの報道番組くらいしか観ませんし、しかも最近はネット回線が高速になり動画が鮮明ですので、それも自分の部屋のPCで観て済ませているようです。
ですからLDKに置いているテレビは映画などを観る再生機器と化しており、食事中にスイッチが入ることは絶対にありません。
人生は短いもんです。
できるだけ話をする。
話が尽きれば表情を見る。穴があくまで見る。
この年齢になっても「愛おしい」と感ずる自分をなんら恥ずかしいとは思いません。
「照れ」と「節度」は別で、使い分けるべきもの。みっともない行いはすべきではないが、照れて妻に愛情を伝えられないのは愚かなことです。
要するに「自分から幸せになろうと努めている」のかも知れません。
けど、それは裏返せば「一人の時の虚無感が濃い」と言えないか。
一人の夜にみる夢
かみさんが居ない夜、訳のわからぬ夢を見る事が多い。
巨大な倉庫の中で数万個の空っぽダンボール箱がメチャクチャに散乱し、その中心でもがいてる自分がいる。「マちゃ」と「まる」がニコニコ笑っている。二人は突っ込みとボケでケラケラ笑う。月日が癒しきれない悲しみを無視し、一番好きだった当時の笑顔でおいらを苦しめる。
「記憶」というものは存在してないと理屈では理解してます。思い出す行為は今現在の脳が作り上げてる想像にすぎないとね。しかしこの鮮明さは何なのか。そこに彼女が存在してる実在感。
あまりの鮮明さに完全に目が覚め、もう寝る気になれず寝れもせず、PCを立ち上げたり窓の彼方の暗い街灯をぼんやり眺めたり。
若くして死んだ友人達は当時のままの姿でその辺にいると錯覚する。そして「彼女」がおいらに怒りを向けた記憶を都合よくすり替え、優しい笑顔だけを思い出す自分がいる。
浸りきる事はできず、「夢でもいいから・・・、か」と正気を取り戻す。
でもどうにもならないほど大きな虚無感が襲ってきます。
そこで思い出すんです。自分は今結婚していて妻がいると。
「ではなぜ今おいらは一人なんだ」一瞬そう考える。
妻の姿を求め、やっと留守であることに気がつく。
「俺は女房を愛してるはずだ。
なのに何で「彼女」の夢ばかりみる?」
自問自答しますが罪悪感はありません。子供ではありませので、妻への愛は揺るぎが無い確定的なものだと知っているからです。
遍路 ささくれ小路
若い時、平坦で真っ直ぐな途を進むのを潔いと考えませんでした。
人間同士は交差します。路も一本道ではない。
「寄り道」「遠回り」こそ人生のスパイスなのでないか?
本能的にそう考えていました。
ですので、「この道を辿れば(乗れば)***は確実だよ」というありがたい筈のお話は、ほぼ全て断ってきました。
背後を振り返った時に、彼方まで見通せる一本道を辿って何の面白みがあるっていうんです。それでは深みや複雑さを得られない。
馬鹿だなぁと諫める者もおりましたが、馬鹿で結構。
胡散臭い社会が持て囃すステイタスなどに魅力を感じぬ人間もいるのです。超高層ビルを美しいと感じる人間ばかりでないのです。そんなものより、ひとひらの花が美しいとね。
しかし世に存在する道は迷路のようなもの。
すぐに袋小路に突き当たりもすれば穴ぼこだらけで、時には落とし穴さえあります。A級ライセンス並みの操縦とバランス感覚がなければ迷路から抜け出せない可能性もあります。
そして紆余曲折は思い出を作り上げ、人に重みを与えはしますが、同時に様々な傷跡を残します。道が重層すればその分大きい疵を背負う事もある。人生はドラマや漫画ではありませんので全てをハッピーエンドで終わらせて次回に続くとはならない。そのつど解決できぬ問題を残す。
それがゆえに先に書いた様な夢をみて、虚無感に苛まれることになる。
「後悔の無い人生」というのは記号としての言葉に過ぎず、現実には有り得るものではありません。完璧に人生を演出できないからこそ人間であり、もし完璧であったならかえって不気味というものです。それは人間ではない。
自分は一人しか存在しないのに「やりたい事」は必ずと言ってよいほど複数に重なります。「やれる事」と「やりたい事」の間に矛盾が生じます。つまり理想と現実の壁って訳ですね。
この矛盾を抱えている以上、人は必ず悔恨と出会います。
しかしその悔恨が嫌だからと路の前で立ち止まっていることができましょうか?
おいらはできません。
痛い思いをする可能性もあるが、心浮き立つ優しい笑顔に出会えるかも知れないじゃないですか。
天国へと真っ直ぐに登る一本道でなくてもいい。迷路の入り口でもかまわない。そこへ踏み出すのが人生なのではないでしょうか。
自分はその迷路を抜けてきたからかみさんに出会えたのだと思います。
「帰ってきたらどんな料理で喜ばせようかな」
そう思える相手に出会えた。
人生それで充分なのかも知れません。
こんばんは。
初めまして、ハンドルネームはーるんと申します。
このブログはいつも拝見させて頂いてるのですが、今回初めてコメントさせて頂きます。
こんなに愛し、愛される夫婦あるのですね・・感動しました。奥様が羨ましい^^
結婚は灰色だとばかり思っていましたが、この記事ではレインボーですね!
いつも魚山人さまにはブログを通して勇気付けられています。本当にありがとうございます。
これからもよろしくおねがいします!
Posted by はーるん at 2010年05月16日 20:46
こんばんは、はーるんさん。
このような見苦しい記事にコメント下さった事に感謝致します。
つかみどころの無い内容かつ文章なのに、コメを入れて下さったお気持がとても嬉しいです。
おいらは妻への感謝の気持を片時も失くさぬように生きております。
なんの感謝かといいますとね、プロポーズを快諾してくれた事に対してです。
将来のある身でありながら、全然畑違いの板前なんていうロクデモナイもんを受け入れてくれた。店の仕事を手伝うとまで言ってくれましたが、これはおいらが断固として拒否しました。彼女には専門の仕事があり、その邪魔だけはしたくありませんからね。
「結婚は灰色だとばかり思っていましたが」、について一言書かせて下さい。
結婚当初は大概において二人とも幸せです。なにしろ愛し合っているから結婚をする訳なので。
ですが、まぁ新婚当初の気持を維持できるのは3年が限度でしょう。
それが人間の限界です。
その先は多くの場合【灰色】になってしまうでしょう。
その最大の理由はね、「相手に愛を求める」せいなんです。
「愛されていたい」「いつもかまって欲しい」ってのは実はナルシシズムなんですよ。つまり「自分を愛している」という事です。
相手を挑発したり試す様な言動をするのも、同じです。「愛されているかどうかの確認行為」であり、これもナルシシズムによるもの。
これは要するに相手に投影して自分を愛する自己愛なのです。
その本質は、「相手を愛してはいない」になってくるのですよ。
結婚後数年で愛の対象が「相手」から「自分」になるのですね。
両方がそうなるから亀裂が入るのです。
解決策はとても単純。
「相手を愛せばよい」のです。
では「愛」とは何か。
相手が思わず笑顔になってしまうような料理を作ってあげたいという
「気持ち」なのです。
そして人間はね、気持ちに対して気持ちで返してくれる生き物なんです。
Posted by 魚山人 at 2010年05月17日 01:09
初めまして。いつも拝読しております。
私は妻一人・子一人をもつおっちゃんです。
共働きなので、家事も妻と分担しています。
料理の担当は私で、もう20年来、家庭料理をつくりつづけております。
子どもがいなかったころは、料理なんか好きなときにつくればよかったのですが、子どもができるとそうもいかず、ほとんど毎日のようにキッチンに立ち、つくりおきも考えながら包丁をふるうツラい日々であります。
ま、料理は好きなので、それほど苦なわけではないのですが…。
というわけで、エントリーに共感し、こうやって書きこませていただいております。
いや、魚仙人さんと私を一緒にするのも失礼ですが^^;
とくに包丁関係の記事を愛読しております。
実は、ずーっと菜切り包丁を愛用していたのですが、魚仙人さんの記事を見るにつけ、どうしても薄刃がほしくなり、菜切りがチビてきたのをきっかけに、鎌形薄刃を先日購入したのです(もちろん黄鋼ですが)。
で、使い勝手にとまどいつつも、ようやくさいきん慣れてきたなぁと思っていたところに、このあいだのグレステンの記事!
しまったぁぁ! これを先に読んでたら、薄刃じゃなくてグレステンを購入していたのに! って感じでした(笑
薄刃は、ふだん使いの包丁としては、私にとってやや大仰にすぎる感じです。せっかくだから使ってますし、だいぶ慣れましたが。
あ、柳は、黄鋼の7寸をずっと使ってたんですが、記事をいろいろと参考にさせていただき、白二鋼の9寸を購入しました。普及品レベルですが、かなりお気に入りです。
家庭用でも9寸くらいはあっていいですね。出番はそう多くありませんが、刺身を引くのを楽しんでいます。
私のような家庭料理人も、魚仙人さんの記事を楽しく読んでいる人が多いと思いますので、これからも楽しい記事をお願いします!
Posted by サキ at 2010年05月17日 09:49
こんにちは、サキさん。
まずグレステン庖丁の件をお詫びします。
和食庖丁を先に紹介したい気持ちが先行した結果、系統だっておりません様です。つまり順序がバラバラ(笑)
薄刃を選んだのは良い選択だと思いますよ。
薄刃庖丁は素人料理とプロの料理を分ける分水嶺です。最大の特徴は「他の庖丁には無い鋭い切り口」になります。ですから板前になる者は薄刃を習熟するようにしています。
「白二鋼の9寸」の刺身庖丁、これもピタリですね。
あまりに短いと細くて長い和刺身庖丁の特性を出す事が出来ません。
それに「大は小を兼ねる」という言葉は庖丁にも当て嵌まります。
しかしプロが使う尺超えですと家庭では邪魔くさい。
そのような意味で9寸は最高の使い勝手です。
ご家族の為に料理を作る行為は晩年になってサキさんの貴重な財産になるでしょう。毎日の事で苦労もあるでしょうが、それを上回るやりがいもあるはずです。頑張って下さい。
Posted by 魚山人 at 2010年05月17日 14:36
魚山人さま
はじめまして、3年ほど前に何か魚の料理を検索していてこちらのサイトを見つけそれ以来楽しみに見せていただいています。
とてもすばらしく仲の良いご夫婦でいらっしゃるようですね。サイトの更新は奥様がいらっしゃらない日にされているのでしょうか。
私も30年ぐらい前から朝食と土日の6食は家族の食事つくってきました。独身時代からいれるともう40年以上、料理を好きで作っています。
私は最近になって、やっと素直に家内に愛情表現をできるようになりました。^^;)
魚山人さんがいわれているように、表現しなければ伝わらないですね。
定年も間近になって、ずっと健康でいられたこと仕事や親、家内、家族、友人、会社の同僚、先輩、後輩にも恵まれ働きがい、やりがいがあり満足できたことに素直に感謝できるようになってきました。”与える”ことの喜び、満足も感じることができるようになりました。
日本の国や世界はいろいろありますが、与えられた運命は受け止めるしかありませんが、
あとの世代のために変えていかなくてはいけないことは少しでもと思ったりし始めております。
しょうもないことを長々と申し訳ありません。
これからも楽しみにしております。
Posted by 庄助 at 2010年05月18日 08:44
こんにちは、庄助さん。
どうもありがとうございます。そして長年本当にお疲れ様です。
世の中には「お金」という絶対的なモノが存在し、人々はまるでそれの操り人形となっております。
しかるによく考えてみましたらば、元来お金とは「食」を得る為に必要なもの。
しかしながら現在その意味合いは古代遺跡のごとし。
どうも「文明」とはお金と食の乖離現象のことを指すようです。
食を差し出す行為に勝る表現はなく、もてなしの原点です。
それは相手に対して元気よく「生きて欲しい」というメッセージだからでしょう。
サイト拝見させて頂きました。ちなみに庄助さんの行動範囲はどうもおいらとかなり接近しているようです(笑) 言問い通りとか不忍通りあたりにて、すれ違ったりしてるかも知れませんね(^_^)
Posted by 魚山人 at 2010年05月18日 13:19
お疲れ様です
ここのところかみさんの調子が良くなく、 昨日の休日はかみさんが好きな芝桜を見せてあげようと息子と二人でビデオ片手に、見慣れた富士山の裏まで行ってきました 六分咲きでしたが、男富士を背に健気に咲く姿も美しく こりゃかみさんのやつ喜ぶなって息子と話してましたが 好物のバナナを忘れた親父は息子の不貞腐れた顔に 猿じゃあるまいし ねぇもんはねぇんだよとなだめて、なんとか撮影してきました
二歳になったばっかですが 1日二人でいるのは初めてで いつもは三人ですので そんなに手はかからないのですが 昨日はかみさんの大変さが身に染みてわかりました…
かみさんは春から親父さんの喫茶店に手伝いに出てまして 家事に料理にてんてこ舞い 我が家では家事は分担していまして 料理もけっこう自分も家で作るほうですが 今回の記事を読ませていただいた後に思うことは 魚山人さんの奥様の気持ちです 愛すべき人が自分の事を思ってつくってくれる料理… これほど旨い飯はありません きっと食材を知り尽くす魚山人さんならではの奥様の身体への配慮もあるんでしょう 美味しそうに食べてくれる人と出会う幸せ 同じように美味しいものを自分の事を思って作ってくれる人と出会える事も 幸せだと。
これは毎日朝早くから作ってくれるかみさんの手料理を食べてる自分の気持ちでもあります 板前って職業だと生活のリズムが不規則、時間も家にいる家族となかなかゆっくり出来できませんが 食卓に並ぶ渾身の料理と出会って七年変わらない真っ直ぐな心をもつかみさんがやはり一番だと。 感謝の気持ちと見返りを求めない振る舞い これが薄れてくると 愛も薄れてくものだと思っています。
勿論出会ったころのような心を鷲掴みされたようなドキドキするような事は無くなってきていますが、一緒にいる年月で彼女の事を知りつくし 尊敬できるからこそ 女性としての魅力に人間としての魅力が重なっていき 可愛い女から清い女へと変わってきたのかな
かみさんより先に死ぬか もしくは先立たれるか 今はあまり意識しないですが 三十年足っても 愛がある夫婦でいたいです
浅はかで笑われるかもしれませんが、若い頃は所帯もって自分が制限される錯覚があり 独身で板前道を行こうと 思っていました きっと今もそのように生きていれば 昨日見た、ただ根に咲く花の意味がわからなかったかもしれません 自然には人間には到底真似できない生命力があります 人びとを魅了しつつも儚い命で散るものもありますが 何百何千年と生きているものもある 良い休日でした それも前日にこの記事を読ませていただいたからです
泥付きの人参を夢の中でバナナと思っていたのかスヤスヤ人参持って寝てる息子を乗せ家路へ 夜は豪華な食材は蚊帳の外で 自然の恵みを 板前の集大成と意気込み 慌てなくていいから ゆっくり栄養をとってほしい かみさんへの愛情が 日頃の板前料理を忘れる事となりました。
きっと板前って仕事の不都合な時間とかみさんの生き方と価値観 まわりの主婦とは違う時間の使い方が 性に合っているのでしょう近からず遠からず。 それはお互いの時間があることでもあります。まぁここのくだりは、四六時中顔を合わせているよりもそのほうが良いこともあると言うことでしょうか(笑)
しかし奥様が羨ましいですねいつでも旨い料理。 酒もご一緒ですかね(^O^) うちはかみさんが呑めないので淋しい……(笑)
Posted by たいら at 2010年05月18日 20:23
こんばんは、たいらさん。
「酸いも甘いも噛み分ける」
これが夫婦円満の鍵ですし、
人間が偏った思考に陥らないコツでもありましょう。
料理人が到達すべき地点を指した言葉ともいえます。
食材においてもヒトにおいても、甘さだけが全てではありません。
必ず「裏味」が存在します。
妻の苦労を理解してやる事がすなわち「裏味を知る」ことで、料理の道と同じなんですよ。表面的なものに始終してれば人も料理も荒れてしまうものです。
少女のように純粋でいられるものではない。いつまでも純真では子供を育てる事すらできない。汚い泥もかぶらなければいけない時もある。
それを「醜い」と思うか、さらに愛おしくなるかです。
酸いも甘いもね、「自分が愛して伴侶に選んだ人」なのです。
すべてを受け入れなきゃいけないんですよ。
まあたいらさんに対しちゃ余計な説教になりますか。
酒ですか。
うちは互いに「酒豪」ですんで(^^)
かみさんはワインのウンチクがウッセェんですが、それでも土産には欠かさずバーボンを持ってきますんで、少しはおいらの事も気にかけてくれてるんでしょう(笑)
奥様の回復を願っております。
Posted by 魚山人 at 2010年05月18日 21:27