料理商売の現在と未来
●目を逸らさず、把握しておくべきこと
盛者必衰・泡沫夢幻・一炊之夢
(起)→習→模索→試行→【完成】
(完成)→熟成→拡大→肥大→【競争】
(競争)→拡散→乱立→差別化
(差別化)→凝縮(スリム化)→熟成
(熟成)→再び競争・拡散→?
そして一部は「雲散霧消」
我々が生きている社会の「しくみ」は、概ね上記のごとし。
飲食業・料理業界に限った話ではありません。
この「しくみ」の是非を問うのは無駄と言うものでしょう。
このサイクルは「自然の摂理」と考える他なし。
何故なら我々の身体内部のミクロにおいて同じ「しくみ」
それならば【競争原理】は当然マクロでも同じでしょうからね。
誕生し、成長した後、やがて老い、そして消えていく。
それは細胞レベル、DNAの内部においても、そしておそらくUniverse(全宇宙)でも同じことだと思いますよ。
人間が意味のある活動をできうる期間は約50年。
したがって「想定」できるのはせいぜい10年先が限度。
通常の生活をしている時に「マクロ」に思いを馳せるヒマはない。
宇宙論が商売になる学者さんの類以外はそうです。
我々一般人は、数年先、あるいは今日の夜、明日の出来事が頭の中を占めているだけです。
だからと言って先ほどの「サイクル」から逃れることは出来ません。
拡大期も迎えるでしょうが、その先には衰退が待っているのです。
「時間軸」はミクロ~マクロの何処に位置するかで極度に変化しますけども、起きる現象はまるで同じだと言えますからね。千年単位であろうが、コンマ・乗の付くミクロンでも、そして我々の10年でも、結局「起きる事は同じ」なのです。
この事実を、「今生きている現代の社会」にあてはめてみるという「想像力」は、とても大事だと思います。というか、商売をしようかという人間であれば”必須”だと考えます。
自分が思うに、この「必須条件」を持つ人間が、日本からどんどん消えつつある、又は流出しているのではないか。
極度に単純化するなら【自分の立場はいつでも不変】という「信仰に近い思想」が根底にあるのではないか。と、そう思います。
要するに「新陳代謝」の概念を、自分自身に適用してみる想像力がゼロに近いという事ですな。なぜか知らぬが「ずっと変わらない」と信じこんでおるのですよ。
つまり、「変化というものを嫌っている」のかも。
単純の複雑さ~簡単の困難さ
大量のお客に、大量の商品を売る。
それはもう日本では「終了」しているのですが、どうしてもその事を認識できずにいる日本人が多数のようです。
しかし、平成の世になり、主に「環境的要因」によって、一部の者達は「スリム化」への道を選び始めてもいます。まぁ単純に言えば「大きな商いをする大きな資金」、それが捻出不可能になったこともあり、また、無理して捻出したところで「リターン」が望めない。数々の失敗例を反面教師として、それが分かってきたという事でもあります。
余計なムダを廃して、料理とサービスに特化する。
それは結果的に「料理の値段」も下げることが可能になる。
この場合、「結果的に」が分かれ道ですね。
「意図的な価格競争」では本末転倒になるからです。
価格競争に乗ってしまえば、やがて「質が低下」します。
料理の質を落とさずに、「スリム化」するのがミソになるわけです。
お客さんのニーズは細分化が加速している。
つまり「消費意欲」そのものがサイクルの「拡大期」を越えてしまって「成熟期」に達し、「分散」か「霧消」か分からぬがそこら辺に来ているのだという事になりましょう。
そこで「質を落とせば」どうなるか?
「後戻り」する結果になるのです。
いまさら「拡大」や「競争」に戻ってどうなるのか。
それは「お客さんとすれ違う」という事にしかなりません。
客のニーズと合致するには【同時進行】しかありません。
ところが、その同時進行がこの国では問題なのです。
拡大がイコール安定だという「思い込み」が支配的だからです。
あらゆる環境において「新たな芽」が出てくるのを阻害。
「安定した手法」しか信頼せず、「チャレンジ」を理解できぬ。
では、客のニーズを理解している「同時進行」組はどうなるか。
あきらめてしまうか、「既に古びたやり方」に戻る。
そうでない者は「海外に出る」のです。
要するにこれは【質】も一緒に海外に出て行くということ。
日本の空洞化は「ハードだけではない」って事です。
料理やサービスの品質というソフトも消えつつある。
国内に残るのは、旧態依然とした「大量販売指向組」だけ。
先進国の「消費に飽きた人々」は、謂わば【細胞分裂】
それならば、モノを売る側も細胞分裂するしかない。
の、ですが、「独占」は企業の命題であり、ヒトの宿命。
料理のSIMPLEとは何か
今考えている事を全てココに書くというのはちょっと出来ません。
また、書いたとしても何もなりません。無意味でしょう。
脳みその中を残らず文章にするのは不可能ですしね。
なので「漠然さ」はご容赦ください。
派手な料理というのは目を引きます。
一定の修行を積んだ料理人が作れば美しさも加わる。
そのようなものを作りたくてこの世界に入る。
誰しも若き日に通過する道だと言ってもいいでしょう。
その次に待っているのは【素材との邂逅】です。
その辺になると「食材の重み」が分かってきます。
「みてくれ」よりも材料の持ち味を引き出す事に夢中になる。
この段階になった人は、もう「ベテラン」でしょうね。
しかし、ふと気づく。
「これは間違いなく美味い」
「だが、お客さんはどうなんだろう?」
「そういえば数十年間《どうなんだろう》を真剣に考えたことあるか?」
「もちろんお客さんの満足は考え続けてきた」
「しかし、何故俺は今《間違いなく美味い》と思ってるのだろう?」
「俺が今作った料理・・・」
「これはカレーとかピザとかヤキソバのように何十年も人々を楽しませ続けることが出来るモノなのか?」
「そうでないとしたら、この料理はシンプルではないのかも」
そもそもね、「素材の良さ」を理解しているのは自分。
では「食べるのは誰か」という、素朴で単純なことが見えなくなってしまう時期があるのですよ。
我々の仕事は「教師」だったのか?
グラムあたりウン万円の高級食材。
確かに美味だが、その「意味」は何だろう。
考えたくはないが、コレを美味いと思っているのは「ごく一部」だけではないのか。自分は「勘違い」をしているのではないか。
もし「思い違い」をして来たのならば・・・
その「料理」がSIMPLEではなかったという答えが出ます。
ここまでが「入り口」です。 ではSIMPLEとは何なのか。
例えば、
アンコウという冬の食材があります。
鍋の材料に最高の魚ですが、
淡白なものなので、料理方法はいくらでもあります。
「鍋」というのはシンプルな料理。どうしてかと言うと、「全国」で「長い間」「誰にでも」愛され続けているからです。
では、このアンコウの切り身の1個を鍋物ではなく他の料理にする事を考えてみましょう。もちろん料理人であれば、あらゆる調理方法で一品を仕立てる筈です。
ですが、「あらゆる調理方法」を使っても、その料理をシンプルにするのは困難なのです。
必ず「作り過ぎて」しまうからです。
それがプロの料理人という証でもあるのですが。
だからこそ「料理人にとっての料理」というものでしょう。
シンプルとは、「冷奴」とか「ピクルスだけが載った皿」、「おにぎり1個」という意味ではありません。それをプロが作る料理と言うにはやはり疑問がありましょう。
ひとつの答えとして「昔のフランス料理」が浮かびます。
「作り過ぎ」の反省から「和食とイタリア料理の要素」を採用し現在のフレンチに至るわけですが、この過程で「抜け落ちてしまったもの」があると自分は思います。
食べる人の顔。
つまり「シンプルさを追求したはずの新フレンチはシンプルではない」と思える面があるのです。そして、昔の良さを忘れてはいないか?
文章で書けるのはこの辺くらいが限界でしょうな。
あとは皆様の想像力に任せる他ありません。
「アンコウの単品」ですが、
自分はこのようにシンプル化させます。
もちろん「ライスカレー」のカレーを作っているわけではありません。念のため(笑) カレーは最高にシンプルですが、その真似をした料理は「SIMPLE」とは言えませんので。
「素材は素朴なままの素材」、だけど「料理(ソース)は料理」、2つを切り離してみるということになります。
拡散した霧が消えるように、細胞が分裂、あるいは消耗して「命を閉じた物体」になってしまうのが「流れ」であるならば、それに同期して分裂を促してやればいいのではないか。
過ぎた事は忘れ、新たな【誕生】をみる。
時間軸を無視してみれば、至極当然なことかも。
いつも通り、「埒もない話」をつらつらと書いております。
些かウンザリしましょうが、こういう板前だと御笑読くださいませ。
いい加減「上から喋るキャラ」に疲れてきました(笑) 商売人らしく以前のような「低姿勢キャラ」に戻りたいのですが・・・これがナカナナ。いったいぜんたいどうなっておるんでしょうかなぁ(^_^;)
お疲れさまッス!!
ツカさ 更新遅くなるって言ってたよね? どこが遅いんぢゃい(`へ´*)ノ
こちとら爺が服役中に
スマホに変えさせられて コメ大変なんだッツーの!
が
この記事…
すごく良く分かる。
俺も そんなこと考えてた。
だから昨日のコメに英語覚えたいと書いたの。
誘いがあってね。海外から。
でも行かないよ。親方に不義理になっからな。
爺の言う「simple」って
standardに近い感じ?
俺ゎね☆
1号が生まれた年に親方に世話になり始めたんすが ナンチャッテ和食店が嫌で嫌で…
かといって本格的な和食店ッツーのも これから先どうなん?みたいな勘が働き 特化して 尚且晒しの店を探したんすよ。
何故に特化かというと
爺が記事に書いてるように
ぉ客様と足並みを揃えるために。当時ゎ蕎麦でも鰻でもフグでも天婦羅でも 何でも良かった。ただ 魚を学びたい気持ちゎ捨てられず 親方の店へ足を運んだ。当時の給料でゎキツかったが なんとか引っ張って貰えた。
そりゃ最初ゎ苦しみのみ。
辛かった。
でも今。やっぱり正解だったと思ってるし 親方にゎ感謝の念以外無し。
晒しの店だからでもある。
「鮨」とゎsimple。
爺が記事の冒頭に書いたように 変化ゎすんが 結局ゎ
standardな仕事で 勝負する以外にない。素材しかり技術しかり。
いざ
この歳になり まわりを見回すと 閉店が頻繁。でも仕方ないと思う。だって仕事してねぇんだモン。
手を抜いた上で オアイソだけ一流ぢゃ…そりゃ…ね。
我が店にゎまだまだ
違いがわかる男のゴールドブレンドな客人様が いらっしゃる。
ありがたいこと。
爺の言うsimple。
これゎ料理の基礎中の基礎に
手間を
出来ねぇヤツにゎ不可能だよ。
土台がしっかりしただし汁を取れてれば 椀ダネゎ雑魚でも旨い。
種ゎ季節で変わるもの。
客人様に愛されるダシを引くことがstandardだしsimpleだと思います。
我々鮨屋ゎやっぱシャリ。
シャリを褒められっと嬉しいッス!
ファストフードやファミレスが 外食として当たり前になっている今。
死に向かう大人ゎいいが子供たちが可哀想だ。
ファミレスの駐車場にドイツ車やレクサスを見かける。
愚の骨頂とゎまさに(笑)
病気を子供たちに与えてる。
料理人ゎ召し上がる客人様の声と表情を見ること。
simpleの中に 己がする仕事がある。
上から目線!?
今さら(笑)
Posted by 鯔次郎 at 2013年02月08日 02:11
鯔ちゃんおつかれさま。
とても良いコメだ(T_T) (←すぐ泣く(笑)
地球温暖化と「タバコ」はよく似ています。
地球を破壊する、そして人間の健康を破壊する
そしてこの両者は「疑問の余地がないほど危機的」
それが現代人のコンセンサスだということですな。
その「合意」に基いて、急速に対策が進行しているね。
「国際的な排ガス規制」
「あっという間に公共の場は全面禁煙」
世界中の「良識人」はこれを当然だと受け止めている。
だが、疑問を感じている人間がいないこともない。
少数だけどね。
おいらもその少数派です。
ずばり、
「見せたくない事象から人々の目をそらすため」だと思っている。
この世の真実は、単純な「善と悪」だけに分けることは出来ない。
しかし、人間と言う奴はこの「善悪論」が死ぬほど好きなのだ。
それが明確である映画でないと「エンタメ」は成立しない。
正義の味方と、「悪役」が、どうしても必要らしい。
皆が心の中で薄々感じている「真実」とは何か。
それはね、「全部が悪」だという揺るぎなき現実です。
良いヒトも悪いヒトもない。人間であること自体が悪。
したがって良い社会も悪い社会もないし、文明の良し悪しもない。
つまり我々が生きているこの世は、「悪にみちている」のです。
(巨視的には悪でも何でもなく通常のサイクルでしかないのだが、人間の観念からは”悪”になる)
しかし、これを「なすがまま」にしておくと社会は崩壊する。
そこで「まとめ役」がとる手段が「善という幻想」を作り出す事。
真実を覆い隠し、幻想だけを見せておく。
これが「システムの基本形」です。
【温暖化】
企業の規制はできるが、
中国の人口増加と急激な近代化は止められない。
【タバコ】
禁煙を広めることはできるが、
自動車の生産抑制や禁酒令や禁砂糖はできない。
このままでは将来、
「喫煙で数百万人が死ぬ」
「海面上昇、異常気象が頻発する」
だがね、
将来ではなく今現在、
地球の人々は「何が原因で死んでいるのか」
その「事実」にはなぜか目をつぶる。
ま、ようするに巨大な悪の「身代わり」が必要なのですよ。
「責めやすいモノを表に立てて、より巨大なモノを隠す」
「一人を殺せば殺人犯として罰せられる」
しかし
「戦争で100人殺せば英雄」
そういう事です。
この「大いなる流れ」に乗っかって疑問を抱かない。
それが「SIMPLE」を遠ざけている。
潮流から降りてみる
もしくは、自己の意志でいつでも途中下車が可能
そうでなければ、素朴と出会えない。
一貫のにぎり鮨
一皿のスープ
それが「スマホ」であってはいけないと思う。
「波にのりたい人」はそうすればよい。
それが「イケてる」と思うなら、高級車でファミレスもよい。
だが、料理の一品は「いずれ精神を病むオモチャ」ではない。
料理に「使いこなせないアプリ」が必要なのか?
不要。「電話とメールが出来れば充分」だと思う。
そのアプリが、「本当に必要なのか」
それが分からなくなっているから、
今はシンプルではないのでしょうね。
何を言っておるかまったく分からん文章になったが(笑)
ま。あれだ。適当に解釈してくださいな。
Posted by 魚山人 at 2013年02月08日 05:19
魚山人さんらしいブログ復活うれしく読ませていただいています。
”シンプル””わかりやすい”って大事ですし、そうありたいと思いますが、わかりやすくすると困ることも世の中には多いようで複雑に分かりにくく隠蔽されていることが多いですね。ただ分かりやすくして、わかるようにすると人間欲が出てゴチャゴチャと主導権争い、煽動、洗脳、権力争いいろいろなことが起こるのが社会、人間であったりもします。
個人としては、わかりやすくシンプルに生きていきたいと思っています。
素材そのまままというシンプル、極めた上で余計なものそぎ落としたシンプル 悟りのような境地でしょうか。
料理というのはその両方をみたせる素晴らしいものだと思います。ただ”店”での料理の目的を果たすには店が”客を選び”客が”店を選ばない”と成り立ちにくいですね。
この3月末でリタイアになりそうです。
会社での顔、家での顔、親としての顔、プライベートな顔、仮想の顔と使い分けてきました。起きている時間の7割を使っているものが無くなりこれからが楽しみです。もっとも当面、介護という子としての顔、拘束が増えこちら優先で楽しんでいくようです。(笑
Posted by 庄助 at 2013年02月09日 06:45
庄助さん、長い間本当にお疲れ様でした。
おいらも確定申告の時期になると、怒りのあまり目の前が真っ赤になり、「やってられるっかてんだ、ぬすっと野郎が。ぜってぇ今年いっぱいでリタイヤしてトンズラしてやる」と、「毎年」思っております(笑)
料理は人間の気まぐれと「対」になっております。
素うどんが食いたい時もあれば、ごっそり天ぷらなどをデコしなきゃ食べる気がしない時もあります。
その「気まぐれ」とどう対決するか。
それが料理人の仕事なのかも知れません。
「出汁と麺」
それを絶対的なモノにしてはどうか。
でも、それだけで終わるものでも御座いません。
【心理戦】ですな、こうなりますと(笑)
人の心が、結局はシンプルの秘密でしょうからね。
Posted by 魚山人 at 2013年02月09日 08:59
魚山人様
こんにちは。
decorativeとsipmle
みたいな感じとも違い
なんと言いましょうか・・・
素朴な美。
華やかな美。
どちらの美にもSIMPLEは存在し得る。
想像し創造する。
また壊してみる。
単なるありふれた物では無く、
何か特別さも感じさせる。
やはり難しいですね。
簡単には行かないです。
思考をもっと違う次元に持って行ければ良いのですが、
なかなかそうも行きません。
まぁ簡単だと面白く無いですしね。
今日は親父がメバル釣りに行っておりまして、
晩飯は煮付けにしようかなぁ・・・
大きいのが有ったら刺身にしようかなぁ・・・
などと、勝手に頂戴する気満々で妄想しております。
ここ最近、あまり休みが取れないので、
釣りに行く事も無くなりましたが、
たまには釣り糸を垂れて、
ぼーっとしながらと言うのも必要なのかもしれません。
まぁイラチだし貧乏性なので、
ぼーっとなんて出来ませんが(笑
Posted by たかくら at 2013年02月09日 12:34
こんにちは、たかくらさん。
メバルですか。いいですねぇ~
まだまだ寒いこの時期、『メバル酒』がぴったり。
ウロコを引き、ワタをツボ抜きしてよく洗い、少しだけ寒風干し
そいつを素焼きにして鉢に盛る、
そこに熱々の酒をドボドボ・・・・・
う~ん(笑)
Posted by 魚山人 at 2013年02月10日 06:15
お疲れ様です。魚山人様。
「シンプル」
…な鮟鱇…
…すごく気になります。
今私が読んでいる本は、北大路魯山人さんの「魯山人味道」なのですが、
親爺さんが「落語のCD聴きたいからくれよ。」というので5枚程渡したのですが、暫くしてから、「お返しというか……まぁ、読んでみ。」と言ってこの本を戴く事になりました。
色々考えて下さって、今の私に必要な本を選んだのかなぁ。等と想いを馳せてみたりしました。
親爺さんがまだちょうど私位の年齢の時に購入した本だそうで、見ると定価8000円。
当時のお給料の事を思うと中々高価な買い物です。
…ちゃんと修行してきたんだなぁ。
等と意味不明な事も思ったりしました。笑
私も私なりに修行に励もうって強く思いました。
話が逸れてしまいましたがこの本、二重の箱に入っているのですが、「美食の奥義」って書いてありまして、数の子の話やらなにやら淡々と書いてあるのですが、前書きにはそりゃもう魚山人様が常々仰っている事がつらつらと書かれてありました。
この本を読み返すにつれ、素朴の素敵さ、シンプルである事の大切さ、色々思う事もありますが、少し感じる事となりました。
まぁ、個人的には奇をてらった料理も良いと思います。
それでも、素材を大切な想いのもと誠心誠意込めた料理でないと、それが本当に奇抜な料理として出てしまうと思います。
新しい料理にチャレンジする時こそ、原点に戻るべきだと感じました。
お客様の前に出す事は殆どありませんが、一部の五八様の中で良く勉強させて頂く方がいらっしゃいますので、甘えさせていただいております。(全くとはいえないですが殆ど奇をてらったものは拵えないです)
それでも良い緊張感をもって仕事しながら勉強させてもらってます。
魚山人様の記事の世界と現実の自分の努力やら何やらを巧く組み合わせていけば、もっと前に進めそうです。
いつも有難う御座いますm(__)m
長駄文失礼致しましたm(__)m
休憩させて頂きます。
Posted by 鰻乃慎 at 2013年02月10日 15:51
こんにちは、鰻乃慎さん。
少しだけ答えを言いますとね、
「料理は結局のところ、その人間が持っている《個性》」
そう思っています。
魯山人にかぎらず、昔の和食関係者には素晴らしい人が沢山いました。吉兆の初代とか常吉とか辻氏とか、枚挙に暇がありません。
それでありながら、なぜ和食はある意味「間違った道」に進んだのか。
驕奢に傾いたり、砂糖の依存症になったりとかを、「和食の誤り」だと考えてもよければ、「道を間違えた」という意見も成り立つ。
ひとくちに「和食」と言っても、業界全体が同じ方向に動いている訳ではなく、2割程度は「道を間違えずに進化してきた」
が、残りの8割が向いている方向は「料理の拡散と分解、解体」
これはいうまでなく、料理に企業の理屈を導入したからです。
アンコウの肉を「企業のアタマの商売料理」にしない為には?
その解を出す方法が、「個人としての思考」とシンプルなんですよ。
「子供の偏食には理由がある」
「大人の食指向には落とし穴がある」
子供が偏ったものしか食べないとお母さんは嘆く。
だが、実は子供の本能の方が正しかったりもする。
子供は「思い込み」よりも「シンプル」で判断するからです。
Posted by 魚山人 at 2013年02月10日 16:34