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人を置き去りにする「最先端の料理」

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流行の料理を追う

【壱】 板前前期

料理の世界も、板前の世界も、ずいぶんと変わっちまったと思います。と言うよりも、日本って国そのものが様変わりしただけなんでしょうかね。良くなった所もありましょうし、悪くなってしまったこともあるでしょう。

どちらにしても、後戻りは無理な相談でしょうから昔を懐かしんでも何の意味もございません。「温故知新」なんてものは単なる言葉であって、今を生きる人間にそれを期待できよう筈もない。刹那刹那で目新しさを追いかける事に忙しく、人々は古い人間になど目もくれない。

そもそも、その「古い人間」だって、若い時にはきっと同じだったでしょう。時代に反発し、「俺は新しい方向を目指すんだ」とばかり、尖っていたに違いない。また、そうあらねば仕事で成功はできない。自分が尊敬する料理人は例外なくそうですね。若い時の気骨が普通じゃない方ばかり。根性・性根って奴が、人とは多少異なっていたのでしょうね。

近年の料理人志望者は、若いのにしっかりした考えを持っている子が多いように感じます。まぁ適当な感覚の者もおりましょうが、多くは高い志を抱いてコックなり板前なりを目指している。

感心するほどしっかりとしてます。が、しっかりし過ぎている気がしないでもない。「頭が良すぎる」という気がするんですね。あまりにも将来のビジョンを明確に持ちすぎだと思うんですよ。

それは良いことではあるんですが、もしビジョンに綻びが出た時に、耐えられるかどうかです。夢を持ったり、上を目指すのは間違っていない。だけどね、現実の世界はゲームではないのですよ。何が起きるかなど絶対に分からない。ましてや自分が頭に描く未来など、まず絶対に実現はしません。

実際に現実の世界で成功なさっておられる方々の人生を見れば、それは明らかです。あの人達は若い時、「成功してやる」「モノになってやる」「自分の店をいつか必ず持つ」という、ぼんやりした大雑把な気持ちは、強烈に抱いている。

だけどね、具体的にどうこうという、構想とかビジョンはまるで無し。未来のことを考えてる暇がないからですよ。ではなにをしているのか言うと、【腕を磨いている】のですな。その日その日に集中しておるわけです。

そういう方にかぎって、面白いことに料理人になりたくてこの世界に入った人ではなかったりするんです。けっこういい加減というか適当アバウトなスタートなんですよ。

じゃあ、なんで成功者になっているのか。それは「成功が向こうから来た」からです。こういう世界はね、「腕がすべて」なんですよ。腕を上げる者は同時に必ず人間性も向上する。しない者は本当に腕が上がったのでなく、要領よく立ち回っているに過ぎない。

そんな違いは「見る人が見れば」一発で分かることです。本当の力を身につけた者を見落とすような業界じゃありません。その「見分ける目」を持った人々が徐々に増えていくとね、金など貯めていなくとも、成功への道へ進めるのですよ。「向こうから来た」というのは「自分が引き寄せた」という意味です。

時代はどんどん変化します。
人々は次から次へと新しいものに飛びつく。
古くなったものは見向きもされず、「ロートル」と嘲笑される。

けどね、それは「本当のこと」なんでしょうか?

心底から「新しいものは良い」と思っているんでしょうか。
もしそうだとしたら、なんで「目移りする」んでしょうかね。

なんでそう「浮つく」んです?

一つの事に集中できない自分を「幸せ」だと感じるんでしょうか。
前期のiPhoneと新型の違いは、人生を左右するほど重大ですかね。

疲れ果てて、「からっぽ」になるだけだと思いますよ。

20年前、30年前、もっと前から何も変わってませんよ、「人間」は。
人間がまったく変わってないのに、なんで料理だけが変わるんです?

40年前のレストランのメニューが、今でも本質的に何も変わってない事をご存知でしょうか。

変わらないのは「ズレている」「古臭い」
そうはっきり言える根拠は何です?

おかしいでしょう。

何に煽られているのか

いったい何を追いかけているのか

「新しい」とは何がどう新しいのか

本当にズレているのは何なのか

【弐】 板前後期

いまさらこう言っちゃあ、ナンですけども、板前家業って奴ぁ疲れます。うちはお客とナアナアになって「ツケ倒れ」するような営業をしてません。かといってお客さんと会話しなくもいいってモンではない。

着物にしろ白衣にしろ割烹着にしろ、前掛けをキリリ締めて晒に立つ。たとえその日は包丁を持たずとも、板の格好はする。で、お客様に相対し、全神経を傾ける。それが当然のことです。

その会話ですな。いきつけの小料理屋での様なべらんめぇってわけにはいきません。それなりに立派なお客様が多く、そうそうバカなど言えるはずもない。ブラックジョーク好きの血は騒ぐが、抑えこむしかありません。

正直な話、ストレスがたまります。

精神の均衡を保つ為に、ときどきプイっとトンズラする場合もあります。それで何処に行くのかといえば、同業者の店です。すし屋に行ったり、割烹に行ったり、時には洋食や中華にも。

そして親方と世間話。アイツはどうしただの、あの店はどうだの。
主婦の「ママ友」ならぬ、「オヤジ友」。井戸端会議かってね。

馬鹿話はするものの、やはり親方連中ってのはどこか「固さ」があります。生真面目さというか、頑固さというか、芯の部分は隠せない。修行時代から培ってきた「自分なりの考え」って奴がそうさせてしまうのでしょう。

料理も人も回遊魚

築地とかあの辺の路地裏に回ってみると、爺さん達が何かをやってるのを見ることができます。なにやら台の周囲に腰掛けて手作業をしている。よく見ると包丁などを使っているのが分かります。まぁ、野菜を細かく剥いたりとか、そんな事をしているんでしょうな。そんな爺さんたちの中に、実は大先輩がいたりします。大昔に花板やってた人だったりする。色々と事情などがあるんでしょう。

和食の世界は通り一遍ではありません。もちろん洋食も中華も同じ事。料理界の中にも様々な「縦割り」が存在し、全体がつながっている訳ではないのです。だが、自分が働く場所がどのような属性を持っていようが、そのようなことは関係がないし考える必要はない。ただ自分が置かれている環境で精一杯努力をすれば良いだけのことです。

料理の世界や「料理人」に夢を描いても意味はありません。
夢とかビジョンはね、「料理そのもの」にあるんですよ。

料理そのものとは、イコール「食べる人間」のこと

つまり「人」です。

最初に書いてますように、時代は逆戻りしません。
しかしね、人はそうじゃないと思いますよ。

同じ場所を長い時間かけてグルグル周っているだけ。

たぶんあと数百年はその繰り返しが続くでしょう。

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