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ダボシャツを持たせたてくれた祖母

五月雨に濡れるダボシャツ

冬の最中でも中着はダボシャツ一枚、寒さに弱い者は腹巻。最近の板前はお洒落になりましたけど昔はこれが板前の格好でした。

しかも素足に雪駄か下駄。そんなもんです。外套は店の半纏を羽織るだけとかね。そんな風情が粋でもあったような気がします。

昔の話ですがおいらも同様の格好をして雪駄をパタパタさせながら、ある街を散歩していました。清流が流れていまして、梅雨の晴れ間の良い天気でしたので川の土手を木の枝ぶりなんぞ眺めながら歩いていました。

そこで珍しい光景に遭遇、清流を引いた水場でおかみさん達が盥で洗濯をしています。洗濯板を使いしゃがんでゴシゴシとやってます。

タライに洗濯板で川で洗濯なんてのはお話の中でしか知らないし実際に見るのは初めてなんで、足を止めて暫く眺めていました。

そうしましたらおばちゃんの1人が、
「兄さん、***の板前さんでしょう、どこから来たの」
格好で職業がすぐに分かる利点があった訳ですねぇ。


「東京です」
「遠くから大変だね~。じゃこんな洗濯も珍しいでしょう」
「はい。初めて見ました」
「その若さじゃお母さんはともかく、お婆ちゃんはやってたはずだよ」
「そうかも知れません。母も多分やってかも」

そう返事しながら、思わずダボの裾をつかんで鮮明に浮かんで来る記憶を頭は追っていました。実はこのダボシャツはお婆ちゃんからのプレゼントだったからです。

粋な祖母

祖母は下町に嫁いできましたが生まれは神田か本郷あたりだったはずです。
粋な美人で、しかも気立てが優しいので評判だったと聞いています。

もちろん孫のおいらは大のばあちゃんっ子で小さい頃から大好きでした。

鮨屋や料理屋にもよく連れて行ってくれたもんです。

板前になったのを一番喜んでくれたのも祖母でした。おいらにとって江戸前って言葉は祖母を指していたもんです。

地方に修行に出る時にダボシャツを持たせたてくれたのもばあちゃんでした。

川で洗濯してるおかみさんと話し込んでしまったんですが、
{洗濯機が全国隅々まで普及したのは昭和30年代も後半であり、おそらく東京オリンピック以後。田舎にまで定着したのは40年代に入ってから。それ以前は洗濯板を使っていたし、井戸もあちこちにあった}

それをあらためて教えてもらいました。


子沢山のかみさんは汚れ物も毎日いっぱいでしょう。一枚ずつ手を使い洗濯板で何度もゴシゴシ洗うんです。考えられない重労働ですが、これを当たりまえのようにやっていた訳です。

こんな大変な仕事をやれる理由と動機はおいらには一つだけしか考えられません。


母とばあちゃんの細い腕が頭に浮かびました。

電話でもしよう、暫く連絡をしてない母と祖母に。


そう考えながら寮がある店に急ぎ足で着いたところ、
「さっき連絡があった、急いで帰りなさい」

祖母の死

東京はいつ止むともしれない五月雨の煙幕に包まれてました。


傘を持つのももどかしいおいらは雨など無視して病院に急ぎましたので、着いた時はダボシャツが濡れて肌に引っ付き、上半身が透けてみえる有様。


すでに祖母の意識はなく、反応も低下するばかりの状態。
おいらが来たら目を開けると信じてましたので、額に落ちた後れ毛を直してやりながら色々話しかけてみました。

しかし目を醒ますことありませんでした。

葬式が済むまで泣かずにいましたが、すべて終えた後1人で祖母の家に行き、遊んでもらった庭に立ち、そぼ降る雨をすべて吸い尽くして輝く様に咲く鮮やかな紫陽花の花を見つめていると

涙がとめどなく出てきました。


「せっかくばあちゃんがくれたダボシャツ、雨で濡らしてばかりでごめん」

鬱陶しく降り続ける五月雨も時には役に立つもんです。


男が流す涙を隠してくれましたので。


天国のおばあちゃんへ貝の贈りもの

おいらの頭じゃ難しい事は、分かんねえ。
皆さん方の様に、学があるわけでもねえし、上手く言う事も出来ません。
自分で、もどかしくなりますが・・・

おいらの亡くなったばあちゃんは、妹を東京大空襲で亡くしました。
亀戸駅のあたりで焼夷弾をあびて、必死に逃げ回るうちに、幼い妹を見失ったそうです。
一生懸命探したそうですが、あたりは地獄のような有様で、死体だらけ。とても探しきれなかったそうです。


優しいばあちゃんで、大好きでしたが、その話をする時は、怒ったり、悲しそうな顔になったのをよく憶えてますわ。


おいらも戦争が大嫌いです。

ばあちゃんの好物は貝類。 特に青柳と赤貝に目がありやせんでした。

貝の仕込みをするたびに、優しいばあちゃんを思い出します

冥土で妹と会えたかな ばあちゃん

握り鮨との縁

鮨職人になろうと決めたのは比較的早く、8歳くらいの頃です。祖母が贔屓にしておりました店がございまして、子供のおいらもよく連れて行ってもらっておりました。都内のある老舗です。

その店は昔の江戸前仕事をする店でしたので、煮てあるネタも多く、子供の口になじみ易いという理由もありましたが、海老だのズケだのサヨリだの、そして鞍形に包む様に握ったギョク。

そんな寿司ネタがガキのおいらにはまるでオモチャ箱をひっくり返した賑やかさと申しましょうか、見て美しく、食べてもこんな美味しい物がこの世にあるのかってなもんでしてね、驚愕の思いだったんですよ。

そしてなにより鮨職人です。
その店の先頭板(一番板)が粋で格好が良いんですよ。


姿勢が良い、声がよく響き心地よい、鮨は美しく旨い。
ついでに役者の様な引き締まった男前ときてる。

祖母はこう言ってました。
「あの板さんは性根が優しいのよ。でも仕事では出さないのさ、隠しているんだよ。でも隠しきれるもんじゃない、だから色っぽくて男らしいんだよ」

ぞっこんだったわけですな。
うちのばあちゃんは。

でも流石に祖母です。
冷静に内面も見抜いていたって事でしょうか。

男前とは言っても当時その板はすでにかなりの年齢でした。

その後独立し、鮨屋の看板を出します。
結局それがおいらの親方ってことになります。

そしてこの人の実家は日本料理のお店でして、父親は和食一本の板前でした。鮨から和食に移行したおいらはその店を選びました。つまりその板前がおいらの和食の親方って訳でして、この親子がともに師匠って按配です。

変な親子でしてね、性格がよく似ておりました。
だからなんでしょう、親子仲はあまり良くありませんでした。


間に立ったおいらは色々気苦労したもんです。
まして鮨をあがったおいらが移動した先が父親の店ときますから、仲の悪さに拍車をかけるみたいで気を揉んだものですよ。

「頑固」でしたな二人とも。
常識や固定観念を嫌うところがありました。
おかげでおいらは何度も「島流し」ですよ。

おいらが独立した後ですら同じこってすよ(笑)
「弟子を流れ板にしてどうしようってんだよ、もう」

その当時はそう思っていましたが、今になってみればそれがなければ現在の自分は無かっただろうと考えております。

「型にはまった物の見方」しか出来ない人間になっていたでしょう。例えば江戸前職人は「回転寿司」の仕事を嫌います。


「速いが鮨じゃねぇ」ってわけですな。
そういったのが「はまった考え方」です。

おいらは友達の回転職人に頼んであえて回転に出向いた事があります。「一手握り」を習得したかったからです。それには一日10本前後の舎利を握るしかないからですよ。

江戸前じゃ出来る話じゃない。極めて少数ですが、高速で握ってもちゃんと形に出来る職人が存在するんですよ。そこに興味があったんです。

確かに鮨は四方から包み込んで整えないと形になりません。でも早い握り方を覚えておいても損はしない、別にそれを自分の店でやるわけではないが役にはたつ。

おかげでホテルの宴会場などの催事すし屋台で、100人前を超える鮨を助無しで一人でこなせる様になり、時々声もかけてもらえます。

江戸前板「あんな雑なもんは鮨じゃねぇ」
回転板「タチ板は遅すぎて使いモンにゃならねぇ」
こういったのが固定観念であり、おいらにはそれがありません。

だからと言って回転の寿司が鮨なのかって訊かれるとね、
「はいそうです」と頷く気にはとてもなれませんけど。
1割にも満たない特別な回転職人は別ですが。

*少し補足をしておきましょう。
例えば一般の和食屋や鮨屋では鰻をあまり使わないものです。しかし季節の献立に加えるときもあります。活物を使いたいので冷凍の開き鰻ではどうにもならない訳で、裂かなければいけません。でも普段は使わないし、ましてや鰻屋みたいに量を捌けるわけでもありません。板前といえどこうした物を最初からスムーズにさばける訳ではない。慣れはどんな事でも必要です。

そこでどうしたかと言いますと、鰻屋に習いに出たわけではありませんで、中卸業者を通じて「河岸」に出るわけですよ。午前二時に起きてね。

何故だかお分かりでしょうか。河岸では鰻屋の何倍もの【量】を扱えるからですよ。ムキやサキ、それに丸鮪の解体は河岸の人間にかなう訳がないんですよ。こなす量が全然違うからです。鶏のほどきだろうが同じようなものです。若い時はそうしていましたし、生きたマグロはマグロ船。それをさせてくれた親方がいました。

これが【量をこなす】ということになります。
料理も鮨もある面でこれと変わりありません。
量をこなして「手が荒れた」人になり、雑が身についてしまうのか、それとも違う何かを「速さ」から見出し、自分を一回り成長させるか、それは本人次第ではないでしょうか。

今日も日本のどこかで同じ料理の仕事に携る板前だのコックだの同士が互いに、「あいつの鼻は高い、低い」とか、「あの料理は偉くて、この料理は貧乏臭くチンケ」とか、喧々諤々やってる声が聞こえます。
まぁそりゃあ仕方がないのかも知れません。

でも自分には遠い響きでしかありません。
日本料理の板を現役でやっていても、そして料理人を引退しても、おいらは鮨を握り続けます。
それが三度の飯よりも鮨を好み、人生の全てを教えてくれた敬愛すべき人、亡き祖母へあてたおいらの気持ちだからです。

初春握り二種

シオゴ(勘八の若魚)の握り

雨波貝(北寄貝:和名.姥貝)の握り

魚山人さん、こんばんは(^_^)
わあ、8歳で鮨職人になろうと決めたんですか~
私の小学校にはそんなカッコいい男子はいなかったです(笑)
その頃の私は、魚もお寿司も大好きで、
日本に産まれて良かった~と思っていました。
「握ろう」というより「食べよう」と・・(笑)

初春握り二種、とても美しく美味しそうですね。
貝を握ると、お婆様を思い出されるのでは?

今日から師走。お忙しいかと思いますが、
どうぞ体調崩さないようにして下さいね☆

Posted by 豆奴 at 2008年12月01日 19:17

こんばんは豆奴さん(^^)

祖母の事を憶えていて戴きましてありがとうございます。
ばあちゃんの好物の鮨ネタだったってだけじゃなく、貝の握りは艶っぽいから好きなんですよ。着物の似合う江戸前女性だった祖母を思い出します。またそういう風に握りたいと思うんですよ貝は。

豆奴さんも寒さに充分気をつけてお過ごし下さい。

Posted by 魚山人 at 2008年12月01日 20:30

お疲れ様です。例年になく静かな師走です…準備万端 何時でもおいでくださいって 気をはっているんですけどね(笑) 初春二種握り 見るからに美味そうですね(^-^) 先日休日に常連さんのご両親のお祝い事のお集まりへ お声を頂き 鮨を握りに行かせて頂きました。自分は鮨屋で修行はしていませんから 日々研究の身 それらも御承知していだだいてるお客様ですので 出向かせていただきました。魚山人さんの入魂の見繕いのようにとはいきませんが、ご年配のご両親の優しそうな顔をみていますと 普段にもましてテンポが良く また喜ばれて 美味しいなんて 言ってもらうとジーンとしちまいます 常々相手の事を思ってまっとうしたいです。今年の流行語なんて世間でどうのこうのなんてやっていますが 自分の中じゃ〔姿勢〕ですね  それにしても八歳から決めていたんですね あのイチローも小学校低学年でプロになるって決めていたそうですが 彼はそのとき年俸は億 そして両親 お世話になった人 監督を招待して 滅多に行けない一流ホテルで一番高いステーキをご馳走するって書いてあったそうです。もちろん有言実行です 子供たちを集めて何になりたいか聞くとみなあることはあるんですが 五百人いたら一人か二人いるそうです たとえば医者になる それにはなにをしたらいいかわかっていて 目的もある お父さんのように人の命を助けて 喜んでもらって それを嬉しそうによろこぶお父さんの背中をみて 将来をきめてる そういう子供はまちがいなく医者になるそうです もちろん親とは正反対の仕事に付く子もいるのでしょうけど そのへんは自由であってほしいですけど(^-^)今日の記事を拝見させていただいていますと 自分とこの鼻垂れはいつ将来を見据えるのかなぁなんて思っております。いけません親のエゴなんでしょうか 鯔さんとこのご子息様が、魚山人さんの暖簾を卒業するとき入れ代わりで自分のとこの坊主も… なんて厚かましい男になっています(笑)
Posted by たいら at 2008年12月02日 18:32

イチローはある意味で人間を超越しておりますから、彼との比較対象はあまりに無理がありすぎますね(笑)。憧れても無駄な場所に存在する特別な人種なんですよ彼は。誰も届きはしない場所にいますからね。

先を想えばため息が出る。それが普通の人間ですよ。
遠い先を見て毎日をコツコツ生きる。そうありたいものです。

静かな暮れになりそうですね。
昔の鮨屋ってのは盆暮れや母の日なんて、それこそ手が上らなくなるくらい握んなきゃいけなかったもんです。手間も今の三倍くらいでしたよ、その期間の日当ですな。ちょうど10年くらい前からそんな「賑わい」が消えていったように思います。理由は複数あり、それが重なってこうなっているんでしょう。

やはり子供の親ですなぁ(笑)たいらさんも。
そんな心配もおいらから見ればうらやましい限りですよ(^_^)
もし自分に息子がいたら、
そうですなぁ・・・・
「いつも自分らしくあってくれればそれでいい」ですかね。

お疲れ様です。

Posted by 魚山人 at 2008年12月03日 16:02

無防備なところを
いきなし後ろから刺されたような記事…

実ゎ数年前に
量販店に転職を考えた時期がありました
鮨屋だった叔父ゎ某地下街で修行中に 24本のシャリを捌ききったそうで…俺にゎ想像すらつかネェし実際無理でしょう。今の技術だと…
そんな叔父に指摘されたんすよ 『お前 もう少しスピードつけネェとダメだな』って

真剣に悩んだよ俺

結局ゎ今の親方から離れらんなかった

『回転寿司屋』
いまだ入ったことがネェ
恐らく固定観念なんだろう
子供達ゎ行きたがる

決して回転板をコバカにしてる訳ジャネェ 仕事に賭ける情熱ゎ個人的なものだしね ただ回転寿司の経営方針に対し 貴重な給金を払うのが嫌なだけ

俺ゎ回転や量販店 ケータリングなんて職場ジャ猫の手以下だろね 複雑な心境のまんまカキコミしてますよ今

でもね!爺の記事をいろいろ読まして貰ってっと
ヤル気ッツーカ なんか『力』が沸くんだよ

シヨッコゎスルーしても
その北寄
爺の鮨に対する姿勢が
汲める握りですよ

しかも握る姿勢すら伺える

握る姿勢が猫背な奴ゎ
不思議と鮨も猫背…

ピンヒールを何気なく履きこなす艶姿
美しい握りですね

粋な女性
陰にゎ並々ならぬ努力や苦労があるもんすよ


お疲れ様です。爺
今日ゎ精神的に全身打撲
治癒に必要な湿布薬ゎ己の考え方次第なんだろう

明日に繋げとくゎ…
Posted by 鯔次郎† at 2008年12月03日 02:48

お疲れ様鯔ちゃん。
まぁまぁそう堅くならねぇように(笑)

確かにおいらの記事は毎回少々批判的なトーンだがね、
しょせん文章ってもんは自分の経験や生きかたがバックボーンになっててね、だから言わば他人様に向けて書いてる様にみえながら実は自分に問うている訳ですよ。

負けず嫌いだったから若い時から無鉄砲に何でもかんでもトライした。
杓子定規に固まった考えを寄せ付けなかった。
出来なければ出来るまでやった。負けたくねぇからね。
(勿論出来ないで終わったのもいっぱいある。今もある。)

単純にすればこれだけの事なんですよ。何百ページの記事を書いてるけど。

負けたくない気持ちと、もう一つは面白がる心。
そうじゃなきゃ生きててもつまんないよ。
(それがなきゃネットでサイトなんぞやってられねぇって。単純な反復作業の苦痛は板前修業を上回って禅僧のレベルだもん(笑)

省略

鯔ちゃんは筋の良い鮨職人ですよ。
ホッキの握りから、日本髪に簪刺した姐さんの色気をちゃんと見分けてるからね。
いいじゃん、今のまんまで(^^) 頑張れ!江戸前板鯔次郎。
Posted by 魚山人 at 2008年12月03日 16:05

お疲れ様です。爺
今日ゎ朝から いろいろ考えながら仕事入り

シャリ炊いて だしとって
仕分けして 仕込みして…


考えられたのゎ
いかに お客様に納得してもらい 『あの店 あの板ゎいいね』って感じて貰えるか…ただ一つでした。

うちゎ常連様に支えられてる店 だから『鯔チャン腕上げたね』って感じて貰えるよう やるしかネェよ

ありがとね 爺
俺みたいなハンパ者に…
忙しい中の返事。
江戸前板なんて立派なもんジャネェが 俺ゎ今目の前にある仕事に感謝しつつ
精一杯を提供してきます


な~んてカキコミしてっとさ
せっかくの素人サン宛てblogがだいなしになっからさ…
でも爺の記事ゎ職種に関係なく当て嵌まるんだよなぁ(笑)



お願い(人´∀`)
ちょいと一言カキコミ欄を貸してくれm(__)mゴメン!


た-いらサン!
毎度毎度の素敵なカキコミ!
おそらく俺のほうが無駄に人生を長く生きてますぜ
(笑)

しか-し 鯔チャンゎ無駄を糧にしてますよ(笑)だって反省することバッカシしてるから(笑)嫁サンに何度…
わかりますねこの先
(┰_┰)


あのさ
爺んとこに お互いの
『鼻タレ王子』を修行に出す前に 俺らが先に爺blogから暖簾をくぐらなきゃ 親子二代で ウルセェ爺に世話になることに なんべょ?
冗談ジャネェべ!?

だから俺らゎ早いとこ このblogから卒業しネェと いけネェんだょ

俺ゎ単位が足りネェから
しばらく留年するがね

師走だってのに
『師』ゎ退職金でヌクヌク
走ってんのゎ
『リストラ係』の人事サン


やるしかネェ!時代もクソもネェ!やるだけやって ダメなら本望だよね


爺が俺にくれた純粋な
『頑張れ!』
鯔からも送ります

『頑張れ』お父ちゃん!
Posted by 鯔次郎† at 2008年12月04日 02:46

鯔さん。

遠慮などいりませんので自由に意見交換して下さい。
コメント欄もそれが本望ですよ。

たいらさんも必ず目を通してくれるでしょう(^_^)


Posted by 魚山人 at 2008年12月04日 12:13

お疲れ様です 自分は魚山人さんのブログに出会い、生意気にもコメントなんてさせてもらって 尚且つお返事まで頂いて とても感謝しています 初めは鱧の産地を色々調べたくアクセスしていて 手前板前男前に出会いました 同じ(失礼します)板前で分かりやすい説明と巧みな文章 勉強させられる知識 またアクセスしたくなる、惹きつける雰囲気。世の中すげぇ板前もいるんだなって 嬉しくなったんですよその時。あのとき鱧の産地を詳しく図書館かなんかで勉強していたら今はこうして書き込みをさせて頂いていないかもしれないです。この半年本当に得ることばかりで、得たものを、心で理解して実践できるか 頭だけの理解は、色褪せますから。 十人十色 最後は人間力 これが磨かれていかなきゃ 必ず色褪せる時がくるそれをより感じるようになったら すべての魚山人さんの記事に板前かつ人間力の姿勢の在り方がみえるんですよ。今の自分は立派じゃなくてもかまわない デカイ夢でもチイサイ夢でもかまわない どんな生き方になろうとも まず己を見極める かならず後から付いてくる そこまでの境地にいかないと 先を見ても先細になるんじゃないか… 生意気にタラタラと書いてしまいましたが 若い頃より質が違う素直さでいられる時間が圧倒的に家でも板場も多くなったからこそ すこしずつ道がひらけていくんだなって。コツコツとやってまいります。  鯔次郎殿気に掛けてくださいましてありがとうございます。 貴方の真っ直ぐで職人気質なコンメントは自分たち世代にとっても大事な事だと噛み締めています 暖簾の事ですが… 鯔さんと同じですよ(^-^)家はハナタレがなにかの間違いで大学に行きたいといってもお金はだしません(意地悪じゃないです)自分で働いて なんとかしなよって(笑) かみさんが、こういう人です(笑) お互い頑張りましょう 10嫌なことあっても1つ良いことあれば10なんて糞くらえですよ その1つが誰かの為になって自分の糧になるなら… ありがとうございます
Posted by たいら at 2008年12月04日 15:46

寿司には非常なトラウマがあります。
まだ幼い頃ですが,祖父が伏見稲荷に毎月お参りするのに付いて行きました。

祖父は,いつも日本酒といくつかのつまみと握りをテーブルで注文しました。

私は,幼いながらもカウンターに座らされたのでかなり遠慮して,「ちらし寿司」を頼みました。

とても,おいしかったし,祖父にも感謝したかったので,「ちらしはおいしいね」と祖父に言うと,カウンターの中にいた職人さんは,「ちらしがうまいんだってよ」てなことを仲間に言ってました。もちろん仲間内で言うのは問題ないし,セコイ客ってのはどこにでもいます(かつての祖父もそうだったんでしょう)。

ただ,一期一会という心からすれば,
許される言葉ではないと,今でも思います。
Posted by 読者 at 2008年12月04日 03:10

こんにちは、読者さん。

ありがたい書き込みです。
とても貴重で待っていたコメントですよ。

世の中にゃ、いまだにそんな職人ばかりだからですよ。

そんな失言は職人でもねぇし、商売人でも、会社員ですらないのです。
「お客様からお金を頂いてるから」ウンヌン以前の話なんですよ。人間として大人になりきってないのです。つまり常識が成長しておらんのですよ。

プロの方はこのコメントをかみしめて頂きたいものです。
Posted by 魚山人

魚山人さんのコメントとても感謝します。ペコリ。

味もわからない,関西の田舎で生まれ育った私の記憶なんて(大学は東京の一番嫌み大学でしたが)江戸前の職人さんからすれば,永遠のゲスでセコな客だろうと自分でも理解してます。実際舌もいつまでたっても卑しいのも自覚してます。私はグルメでもないしグルメになりきれないしウンチクもございません。

ただ,おいしいものをいただいたその瞬間は,舌の直感が記憶になり,そしていつまでも思い出になり..という経験は何度もあります。

そういう意味で,人間の舌というのは
とても回顧的なものかもしれませんね。

こんど,赤穂の坂越の牡蠣を現地で食べに行きます。お江戸のプロの方々も坂越の牡蠣を一度味わっていただきたいです。
私は地元の食材がこよなく好きなのです。
Posted by 読者 at 2008年12月05日 00:47

読者さん。

お客さんにゲスでセコなんてものはありませんよ(^_^)
卑しい舌なんてのもないし、ついでに「グルメ」なんてのは幻想です。

味覚とは記憶なんですよ。日々重ねていく。

だから我々料理人は「良い思い出」を提供するのが仕事なのです。

懐石の一期一会とは本来そういう意味なんです。

赤穂のカキはプロの間でも評判良いですよ。
おいらも食材HPの方で紹介しているくらいです。

どうもありがとうございました。


Posted by 魚山人 at 2008年12月05日 01:35

皆様のコメントから、今年の冬が、本当に厳しいのが、よ~くわかります。
佐渡の冬も、結構厳しそうで…自家栽培の7割の野菜と、人があまり使わない魚を(佐渡の場合、他所が使わないのが結構あるもんで)、魚屋との仲で、なんとか安くいれてもらい、よそ様が、10頂くところを、7位頂ければ・・・
なんて商売で、何とか食い繋いでいます。
(昔、返ってきたころに本土の値段で家を継いでひどい目にあったもんで・・・)
今のやり方が、やっと芽を出して、双葉が出たところくらいです。常連様、様々な毎日ですけど・・・ランチ500円なんてものも、初めてかれこれ8年、この不景気ですけど、
定着しきっていいるもので、値段は上げず、逆に日替わりなもんで、メニューを楽しみながら、苦しみながらやっています。
お客さんに、ケチつける・食べさせてやってるんだみたいな店は、こちらでもあるようですが、いい加減にせぇ~や!と思いますね。
 子供の件ですが、私がこの世界に入るときに、親父には、思いっきり反対されました。
この世界の厳しさと、私の性格からですが。
子どもには、こっちから押し付けるのではなく、自分で見つけて、決めた道を、頑張ってほしいですね。こっちが敷いたレールを進むんではなく、本人に責任を持って欲しいもんで・・・自分が生きていく道くらいは、自分でって思っているもんで
皆様みたいに筆達者じゃないもので、乱筆乱文ご容赦ください。失礼します。
Posted by 佐渡 at 2008年12月04日 23:44

佐渡さん。

努力して地元に根を張って行った様子がよくわかりますよ。
時代はコロコロ変化するものです。振り回されない為にはコツコツ行くしかありません。これからも頑張って下さい。

子供の件は同意しますが、コメントを寄せたお二方は「レールを敷く」タイプではございません。我が子といえど「自分で生きろ」そう突き放すと思いますよ。
文章というのは難しいので真意を伝えるには困難があるのかと理解しております。おいらはそれを汲んだうえで「人の親」などと申しているのですよ(^_^)


厳しい冬、体に気をつけて乗り切って下さいます様に。
Posted by 魚山人 at 2008年12月05日 01:33

爺…ホント申し訳ネェ

カキコミを被せることゎなるたけ控えますから!これから!

今日ゎ俺が弁解しネェと…



読者サンm(__)m
鮨職人代表して
申し訳ネェ…

さぞやいたたまれネェ思いを『寿司屋』に抱いたことでしょう。これからゎ
『鮨屋』を散策してみて下さい。

心ネェせりふゎ俺が代表して誤りますm(__)m

俺の目指す『鮨』とゎ
口ん中に入れて『心地いい』もの

決して『美味い』とか『上品』なものジャネェんです

所詮言い訳に過ぎませんが
Posted by 鯔次郎† at 2008年12月05日 02:56

魚山人先生:教えの通り、大切に大ヒラメを(私にとって)捌きました。翌日、翌々日と刺身を堪能。感激の分、翌日がおいしかったと思います。コブ〆は高い利尻コブのおかげか激旨。台所のプロも激賞してくれました。
以前、キロ級のヒラメを、釣ったその日に平らげた時と旨さの次元が違うことが家族の表情でわかりました。ついでながら、外道のマトウ鯛はムニエルで。痛風一直線です。
ありがとうございました。
Posted by ヒラメビギナー at 2008年12月06日 22:41

はじめまして、
たまたま流れてきたら、既に3時間もいろんなページを見させていただいています。
為になり且つ一本筋があり、本当に感心してしまいます。
私は、こちらでマグロを切っていたりしまが、マグロついてもなるほどと思わせる内容で素晴らしいです。
今後も時々寄らせていただきます。

何時までも元気で、このクオリティをキープして下さい。
楽しみにしています。
Posted by みかん at 2008年12月07日 11:10

ヒラメさん。

美味しく食べられて良かったですね。


みかんさん。

励みなりました。
どうもありがとうございます。
Posted by 魚山人 at 2008年12月07日 17:40

業火の少女に捧ぐ入魂の懐石

茹だる様な暑気に加えて連日のオリンピックへの熱気、飲料水が飛ぶように売れてるという話を若い衆や商店の親父などから耳にします。よく冷やした水は確かに旨いものですが、渇きを癒すには到りません。渇きを癒し、暑気を払うには、ぬるい昆布茶や、しょっぱい梅干が効果的です。

おいらは時々夢を見ます。おかっぱ頭の可愛い女の子が出てくる夢です。白いブラウスにモンペ姿。夢の中での自分は年齢を確定できませんので、父の様に、あるいは兄の様に非常に慕ってくれる小さな小さな本当に可愛らしい娘なんですよ。

それが夢である事も、その女の子が誰であるのかも、おいらは意識の片隅でちゃんと知っています。

その子は決まって水をせがむんですよ。
「のどが渇いたよ」ってね。


おいらはその子を「おんぶ」して、必死に水を探して回ります。
でもどこにも無いんですよ水が。

そしてそのまま有り得ないほどの時間が経過してしまいます。夢ですからね。

やっと見つけたのは現代の、今この時代のおいらの家の台所の蛇口なんですよ。水道に走ります。

そして水を出す。でもね、どうしても背中に背負った女の子に声をかける事ができないんですよ。

首を振り向けることができない。長い長い時間が過ぎ、もう息をしていないのを知っているからです。

発狂しそうな程の悲しみが爆発しそうになった瞬間に目が覚めます。その晩はもう寝ることができません。


この子は間違いなく祖母の妹です。
1945年の3月10日の東京大空襲の時、祖母は亀戸近郊に居たそうです。二つだか三つの妹を連れて親戚の家に泊まっていたらしい。

その日未明、B-29爆撃機300機以上が深川や城東といった下町を狙い40万発近くの爆弾、なんと1800トン近くも撒き散らしました。

焼夷弾が主体でしたので、炎が「台風の様に」吹き荒れて、当時の紙のような家屋は当然ながら鉄筋コンクリート造りの建物までが火災に包まれ、要するに周辺下町の人間は逃れる術がありませんでした。

火に巻かれて隅田川に飛び込んだ人達は凍死し、翌朝の隅田川には大量死した魚みたいな有様で死体が浮いていたと云います。東京の3分の1以上が焼失し、死者は10万人以上。

そんな地獄の様な中で祖母はなんとか生き延びました。しかし詳細は分かりませんが妹と逸れてしまいました。探して探して、足が動かなくなるまで探したそうです。


おいらはこの歳になって恥ずかしげもなくいまだにばあちゃんっ子でしてね、時々ブログにも書いております。

小さい時から可愛がられたからっていうよりも、おいらの気質や考え方、魂まで、すべて祖母から受け継いでいるからです。鮨屋修行に出たのも鮨好きの祖母の縁からですね。

存在そのものが江戸前な女性でしてね(つまり鰻)、70になってもまだ「美人」で通る祖母の色香に爺どもが目の色変えるのを、おいらは殺気立って追っ払ったもんです。

気っぷと情は辰巳芸者だが品は武家ってな感じで粋なもんでした。祖母から気質を継いだって言いましたが、この歳でこんな有様では一生祖母を越えられないのは確定してるみたいなもんです。

そんな祖母にもしょっちゅう出入りする孫のおいらにしか分からない翳りがありました。いつも穏やかな祖母が、妹の話をする時だけは別の人でした。目の奥にある哀しみと怒りをおいらは敏感に感じたもんです。

そんな祖母が亡くなった時においらあてに残してくれた遺品があるんですよ。一番大事にしてた物です。妹が穿いていたモンペの切れ端に頭巾。どれだけ祖母がおいらを愛してくれていたかを知り、身動きできませんでした。今の時代の技術があれば、あるいは焼失した祖母の妹の写真も復元してやれたかも知れないのが残念でなりません。もう少し生きて欲しかった。

祖母は8月中旬の妹の誕生日をいつも祝ってました、本来なら3月10日の命日を供養すべきなんでしょうが、その日を毛嫌いしてましたので誕生日だけでした。と言っても亀戸周辺を歩き回るだけですが。

6歳頃から妹の話を知り、その後長くばあちゃんっ子だったおいらにとって、祖母の妹は「大叔母」ではなく、小さな妹そのものです。夢に出るのは当然のことなんでしょう。

おいらはいまだに野坂昭如原作の『火垂るの墓』を、どうしても最後まで観ることが出来ません。

祖母の命日には必ず最高の素材を準備して、板前人生集大成ってくらいの気持ちで墓前に料理を供えます。味にうるさい人でしたので。でも祖母は皆に愛され、生きたい様に生き人生を全うした。満足でしょう。


それに比べ、
おいらの小さな妹は喉が渇いてるのに水すら飲めない。

兄としてか、父としてか、そんな事はどうでもいい。
誕生日の妹に魂を込めて料理を作ってやりました。

入魂の懐石

出汁ガラで作った塩昆布で淹れた温茶。
何年も寝かせた15%以上の塩辛い梅干。
百均で買えるような安っぽい器。
そして砂糖菓子。


これだけです。

今の彼女にはこれが温石です。

そして懐石だと思うからですよ。

妹さんを探している時、
おばあさまもまだ子供だったことを思うと、
戦場でどれだけ不安だったことか、胸が痛みますね。
魚山人さんの仕込んだ貝は、
懐かしく優しい味かもしれませんね。

戦争なんて大嫌い。
美味しい貝は大好き(^^)
Posted by 豆奴 at 2006年08月24日 10:30

こんにちは、豆奴さん。
あの空襲んとき江戸の三大河川は、この世の光景じゃなかったそうです。

ばあちゃんが宝物のように仏壇に祀ってた、妹のモンペの切れっ端。
いつかおいらに託される日が来ます。
そいつをまたおいらに子が出来たら、その子にバトンタッチ。
おばあちゃんの記憶と一緒に・・
Posted by 魚山人 at 2006年08月24日 12:52

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